周回遅れの読書報告(その2)

 数ヶ月前に編集委員長から「会員の投稿数が極めて少ない。ちきゅう座の会員ならば少なくとも一ヶ月に2、3冊の本は読んでいるのだろうから、その書評を書いて投稿することくらいはできるはずだ」という手厳しい批判を受けた。確かに月に何冊かの本を読んではいるが、書評を書けるほど読みこんでいるかと自問するとはなはだ心もとない。

そう思っていたら、最近たまたま手に取った『要約すると』という古い本の中で、サマーセット・モームが、同じ本を幾度も繰り返して読むことは「眼だけで読んで、感性で読んでいないからできること」だと語っているのを発見した。これは、半分以上はモーム自身が「同じ本を幾度も繰り返して読むこと」ができなかったことの言い訳ではないかと思うが、読書と同様に、書評にも「十分な理解に基づいたもの」と「感性だけで行うもの」の二つがあり、後者もまたそれなりに意味があると考えることもできる。様々な事情で、もう「感性だけで読む」こと以外には出来ないようになっている。そういうときにこういう文章に会うと、読書はそれでいいのだし、そういう読書でも書評は書けるかもしれないという気分になる。

モームに『要約すると』という作品があることは実は知らなかった。新橋駅前の青空古本市で偶然見つけ、電車の中で読むのに手頃であるという理由だけで読み始めた。モームの60歳代の作品だという。老境に入ってから書かれたものであるためか、人生にいい加減くたびれた私のような人間にとっては、実に面白い。題名から推測できるかもしれないが、それまでの彼の長い人生の様々な出来事が要約されている。もっと、それを逐一紹介することはこの「感性だけで書く書評」の荷に余る。

1917年、革命直前のロシアにモームはイギリスの諜報員としていたこともある。そういうことと併せて、スペインから始まる地中海沿岸の長期の大旅行を計画しながら、スペインのもろもろ(酒、料理、そして女性)の魅力に抗し難く、途中からスペインに戻ってしまったこと、読みたい本をその原語で読もうとして外国語の勉強を始めたものの、途中で「片言まじりにでも話す以上に、外国語を勉強するのは、単に時間の浪費だと思う」に至ったこと、そんなことも書いてある。

私はほんの数か月間だけだがスペインで暮らしたことがある。それでも、スペインに引き返したモームの気持ちは実によく分かる。かの地にはピレネーの北の諸国にはない「なにか」があるのだ。外国語の知識はモームとは比較にならないほど僅かしかないが、外国語など旅行に必要な片言以上は不要だと言われると、わが意を得たような思いがする。

精神を集中して、熟読し、考える契機を得る読書もいいが、たまにはこういう、書いた本人以外にとってどういう意味があるのかよく分からない本を、「暇つぶし」として読むのもいい。自分の感性に触れた部分だけを味わえばそれで十分なのだから。それもまた読書の楽しみであろう。

サマ-セット・モーム『要約すると』(中村能三訳)新潮社、1955年

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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