周回遅れの読書報告(その3)

なぜ本を読むかという質問は愚問であろう。報告(その2)で紹介したモームは『要約すれば』で「好奇心と知識欲とから」本を読んだとしている。もっともモームは、読書が必要欠くべからざる人間にとっては、哲学が「最も変化の多い、最も豊富な、最も満足すべきもの」だとしているような読み手であるから、その「好奇心と知識欲」は普通の人間とは違うのではないかという疑問がある。そこに行くと、イタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』の主人公コジモのほうは安心できる。コジモは生涯を木の上で暮らしたのだが、無類の読書好きで、しかもただ単に本を読むのが楽しいから、読み耽った。

それを知ったのは、経済学者でもあった日高晋氏の文章であった。『木のぼり男爵』に挟みっぱなしになっている古いメモによれば、その文章は同氏の『精神の風通しのために』に収められている「読書法」というエセーにあるはずで、しかも、そのエセーは同氏の古い友人である渡邊寛氏が日高氏の数多い作品の中で「たったひとつ、いいものだ」と評価したものでもあるらしい。しかし肝心の『精神の風通しのために』が行方不明になっていて、これが確認できない。

私はそれまで、「暇つぶし」の読書か「必要に迫られて」の読書かを分類しながら、前者にはある種の「後ろめたさ」を、後者には「義務感」を感じながら読んできた。本は楽しんで読むものだというものは、ある意味では当然のことかもしれないが、私には新鮮な驚きであった。すぐに『木のぼり男爵』を入手して、その日の夜には読み終えた記憶がある。

イタロ・カルヴィーノが現代イタリアを代表する大作家であることは、それまで知らなかった。というよりは彼の名前自体を知らなかった。だから『木のぼり男爵』は何の先入観もなく読んだ。「読み始めたら本を措くことが難しい」という本はそう滅多にあるものではないが、この本はそういう本だった。木の上で暮らし、本を濫読することがいかに楽しいことを、カルヴィーノは描く。それはイタリアン・レアリズモと呼ばれる手法らしいが、名前がどうであれ、読者をぐいぐい引き込んでいく。退屈することはない。頁をめくることさえもどかしい。カルヴィーノの経歴(第二次大戦中はパルチザンに参加し、1956年のハンガリー事件のときに、イタリア共産党を離党した)とは無関係に、そして彼の他の難解な著作(『木のぼり男爵』以外の彼の多くの著作は、私には難しすぎた)とも無関係に、この本は本を読むことの楽しさを教えてくれる。

それにしても日高氏はどんなふうにしてこういう面白い本を見つけてきたのか。当時、年に二回は日高氏と会い、会えば、深更まで酒を飲みながら色々と話を聞いた。だから、このことを尋ねる機会はいくらでもあったはずだ。しかしいつも経済学者としての日高氏の話を聞くばかりで、書評家としての話は聞くことはなかった。そしていつかはその話を聞けるだろうと考えているうちに、日高氏は忽然として逝かれてしまった。「聞くは一瞬の決断、聞かざるは生涯の悔い」であった。

イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』(米川良夫訳)白水社、1990年

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔opinion184:101025〕