初版本とか署名本とかの稀覯本というものにほとんど興味はない。中身が分かればそれで充分だと考えている。初版で読もうが、全集や文庫本で読もうが、何も差はないと思っていた。しかし、それはどうも違うのではないかと、ごく最近思うようになった。
きっかけは偶然のことである。「もう読むことはない」と判断して、かなりの量の本を段ボール箱に詰めて、長い間物置に放っておいた。その物置も手狭になったので、古本屋に処分することにした。段ボールを開けてみたら、何冊かはネズミにかじられていた。それほど長い間放っておいたということでもある。そして一方、「こんな本を入れておいた記憶はないな」というような本も出てきた。つまり私自身によって忘れ去られたのである。
処分する前にその類の本を何冊か抜き出した。その中に、西田幾多郎『「續思索と體驗」以後』があった。今は『続思索と体験』と併せて、岩波文庫に収められているが、最初は1948年3月に単独の本として出版された。四六版の僅か110頁という小さな本である。内容から見ても、これは著者が西田だからできた本としかいようがない。この報告の第2回でモームの本を「書いた本人以外にとってどういう意味があるのかよく分からない本」と言ってしまったが、その表現は私にとってはこの西田の本の方がよりふさわしい。
しかし、そういう本を岩波書店は物の無かったはずのあの時代に(物置から出てきたものは1949年7月の第2刷)驚くほど上質の紙を使って作っている。岩波が西田を如何に厚遇していたかがこのことだけでも分かる。そしてこのことは、全集や文庫本ではなく、原本からしか分からない。
勿論そのことと西田の思想を理解することとは何の関係もない。私は西田の思想とは縁がない。高校にいた時分に、プールサイドで寝転がって文庫本の『善の研究』を数頁読んだところで、あまりにも分からないので腹が立って、その本をプールに投げ込んで以来、数十年間彼の書いたものを読んだことはなかった。したがって、僅か100頁ほどのこの本が私にとっては初めて通読した西田の本ということになる。
大半が古い知り合いの思い出を綴ったものであるが、なかにこういう文章がある。
書物を読むと云ふことは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火を打つが如く、一時に全体が明となる。偉大な思想家の思想が自分のものとなる。(原文は旧字、旧かな)
若い時分、私が西田の本を読むことができなかったのは、自分の思想がそこまで行っていなかったからだということになる。それでは西田の思想が分かるはずがない。そしてどうやら今後も西田の本を読める可能性も彼の偉大な思想が分かる見込みもなさそうだ。
読むこともなく廃棄しようとしていた半世紀も前の古い本から、大昔に自分が『善の研究』をプールに投げ込んだ理由が理解できたような気がした。この本をかじり残しておいてくれたネズミに感謝したい。
西田幾多郎『「續思索と體驗」以後』(岩波書店、1948年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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