この報告の(その1)に日本経済新聞を読まなくなったこと、それと同時に読む本も古い本が多くなったことを書いた。それは読み手である私が「古い人間」となりつつあることを意味している。しかし、古い本には新しい本にはない楽しみもある。古い本が古書店で入手する古本である場合は特にそうだ。また報告の(その4)で「原本でしかわからないこと」について触れたが、古本の場合はさらにそうである。
『生きているグラムシ』は分厚い論文集である。総頁数は540頁もある。多分この厚さに恐れをなしたのだと思うが、その出版を知りながら購入しなかった。今年になって、急にこの中の数編(一編はいいだももの「スラッファ革命とグラムシ」だったことは覚えているが、それ以外の論文が何であったかを思い出すことができない。記憶力の減退が身に沁みる)をどうしても読みたくなって、大阪の古書店から購入した。
いいだももは、グラムシの学生時代からの旧友であるスフッファの経済理論を概説し、ケインズの理論が「革命」と呼ばれるのであれば、スラッファ理論もまた、いやケインズの理論以上に「革命」と呼ぶに値するとする。新古典派の「変化」を前提にしなければなにも解けない限界を指摘し、これを内在的に粉砕したという意味での「革命」である。難解なスラッファ理論の経済学史上の意義をいいだもも特有の口調で実に分かりやすく説いている。恰好なスラッファ入門であるといえる。
また伊藤誠は「グラムシの学際的問題性」で、グラムシ、スラッファ両者とも直接にはマルクス経済学と向き合わなかったと指摘する。そしてこの「申し合わせたようなマルクス経済学迂回作戦は、なにを意味するのか」という「興味をひかれる謎」が提起されている。ただし、答は書かれていない。せめてそのヒントくらいは欲しかった。
グラムシの主たる関心分野であった政治理論、国家論を巡る諸論文は、これを論評する資格がないが、様々な分野の研究者、活動家の多くの論文(なかには文学者・新村猛が1937年に『世界文化』に寄せた短文まである)は読みごたえのあるものとなっている。
最初に触れたように、この論文集は古本で入手した。連絡はすべてEメイルでやった。論文集が大阪・吹田の古書店「阪急東書房」から送られてきたのは今年1月中旬のことだった。折り返しに送金したあとに、見知らぬ人物の名前で、「『生きているグラムシ』の注文をいただきましたが、店主急逝のため送本ができなくなりました。ご了承ください」というメールが届いた。阪急東書房の店主(林氏)はこの本を私に発送したあと、その処理もできないうちに「急逝」されたようだった。私は、「すでに本は受け取り、送金も終わっている」と連絡し、生前遂に会うことのなかった林氏の冥福を祈りますと伝えた。
私のところに送られてきたこの本は、林氏が荷作りをした最後の、あるいはそのうちの一冊である可能性が高い。本に挟んであった「納品書」は捨てる気になれず、そして本を開くたびに、林氏のことが思い出される。古本にはそういう歴史もある。
石堂清倫・いいだもも・片桐薫編『生きているグラムシ』(社会評論社、1989年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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