不思議な小説を読んだ。文庫版が出てすぐに買ったと書きこんであるから2003年の暮れには入手していたことになる。それから6年半、この本を手にすることはほとんどなかった。ずっと、本箱の片隅に放っておいた。小説のモデルが産経新聞の社長だった水野成夫だったからではない。そもそもそのこと自体を今回通読するまで知らなかった。また産経新聞に対しても若いころのような生理的嫌悪感は今はない。「ここまで書くか」と思いながら、保守派の本音を知ることができる貴重な新聞だとさえ考えている。
放っておいた理由として考えられるのは、入手直後、数頁立ち読みして、「これはつまらん」と思ったことくらいである。そんな本なら物置に投げ込んでネズミの餌にでもすればよかったのであろうが、どういうわけか本棚の隅っこにへばりついていた。これが最初の「不思議」である。
最近本屋に行かないものだから、時間つぶし用の本がなくなった。それで気のりはしなかったが、手に届くところにあったこの本を読んだ。やはり「つまらない」本であった。そう思いながら、下巻の最後の頁(上巻から通算すれば854頁)まで読んでしまった。作者の辻井喬は嫌いな作家ではない。しかし、彼にしてもこんな作品を書くことがあるのだという妙な関心をしてしまった。しかしまあ、そんな作品をよくも最後まで読んだものである。これが2番目の「不思議」である。
読み始めて少しして、モデルが水野成夫であることがわかる。そうなると、彼の「転向」に関心が向く。それについて辻井はどう書いているのか。それが知りたくて最後まで読んだともいえる。しかし、多くの読者にとって最も関心があると思われること、例えば「革命運動」をやめて、陸軍(石原莞爾一派)の後押しで工場経営に乗り出した際の「心境の整理」と、産経新聞を保守勢力の機関紙まがいのものにしていった際の「革命家の心情」との突き合わせといったこと、こういうことについてはほとんど書かれていない。これでは面白くなるわけがない。
この作品の初出は日本経済新聞である。そこに同業の産経新聞のトップだった男をモデルにした小説を書くというのがそもそも解せない。小説として虚実ないまぜに書くといっても、水野が生きていた時代がまだ完全に過去ものとなっていない以上、表現には制約がかかる。そのために、全体がまるで水野自身が書いたらこうなるのだろうというような「伝記」になってしまっている。さらに「あとがき」を読むとこの作品は当時の日経の社長だった鶴田卓彦に強く勧められて書いたものだとある。日経に君臨し、例の「親子丼」事件(詳細は省略)を起こした鶴田に勧められたのでは、それもさらに制約になろう。
辻井はなんでこんな制約の多い、そして奥歯にものが挟まったような小説を書いたのだろうか。これが最大の不思議である。ひょっとしたら辻井は「鶴田に勧められて書いた」と打ち明けたことから事情を察してくれと言いたかったのであろうか。
辻井喬『風の生涯』(新潮文庫、2003年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion238:101207〕