周回遅れの読書報告(その10)

「人には添うて見よ」という。本について言えば、「本は最後まで目を通して見よ」ということになろうか。「添うて見」ても詰まらない人間であることもあるし、最後まで読んでみても面白くもなんともない本であることもある。しかもその確率は決して低くない。

しかし中には最後まで読んで初めて、興味が湧いてくるような奇妙な本もある。河西勝の『企業の本質』はそういう本であった。ふと思い立って読み始めてみたものの、著者の宇野批判が異色なものであるために、実に読みづらく、苦痛のあまり途中何度も放り投げようかと思った。しかし、「折角読み始めたのだから、まあ最後まで読んでみよう」という半ば惰性、半ば意地のような気分で最後まで目を通した。

 そろそろ読み終わろうかという自分になって、苦痛がなくなった。そして鉛筆を取り出した。初めて読む本にラインを引くということは滅多にないのだが、どうしてもラインを引きたくなった。そしてもう一度読むことにした。こういうことはあまり記憶がない。著者の主張に最終段階で同意したというわけではない。著者の言いたいことが最後になってやっと分かったというだけである。しかも、その実にユニークな主張は、もう一度熟読玩味に値すると思ったのである。

 上等な読者でないことは十分に自覚しているつもりだが、それにしてもその主張が容易に理解し難いというのは、やはり叙述の方法に問題がある。著者の主張を一言でいえば、固定資本(工場や機械といった減価償却の対象になる資産)の所有は土地の所有と同じものであって、循環資本とは基本的に異なるものだということである。これが冒頭からいきなり、私のような読み手には「論証抜き」と思わざるを得ない強引な手法で主張される(この点においては著者の主張には同意し難い。この土地とその他の固定資産が同じならば、土地が減価償却の対象とならないことは一体どう理解すればいいのか。また固定資本と土地を無差別に扱うのは、固定資本特有の問題を看過することにもなる)。そしてこの両者の同質性を無視する多くの論者に対してはかなり強い論調で、批判が展開される。著者の個性なのかもしれないが、こういう書き方をされると読むほうは面食らう。もう少し別の書き方をしてもらったら、もっと素直に理解できたのはないかと惜しまれる。

 そう厚い本ではないが(総頁数は213頁)、全編を通じて、このユニークな理解を軸に様々な視点から宇野の原論が批判される。最初のうちは「ひとりよがりの独演会」ではないかとさえ感じたが、固定資本の問題は、著者が言うように、所有と経営の分離の問題につながる。そこからまた株式会社の問題も出てくる。そうである以上、この問題をマルクス-宇野批判として提起した著者の考えは慎重に検討するに値する。「所有と経営の分離」には全く関心がなかったが、この問題をマルクス-宇野批判と結びつけた著者の発想は、その論理内容とは別に、評価されるべきではないか。そう思いながら再読を始めた。「所有と経営の分離」の問題がやっと身近になった。それだけでもこの本は意味がある。

河西勝『企業の本質─宇野原論の抜本的改正』(共同文化社、2009年)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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