『去年マリエンバートで』という映画をはじめて見たのは、一体何年前のことかもう定かではない。早稲田の小さな劇場に、あるイタリア映画を見るために入った。そしたら、『去年マリエンバートで』を併映していた。この映画のことはそれまで全く知らなかったが、うんざりするほど暇だったので、時間つぶしに見ることにした。恐ろしく退屈な映画だった。うたた寝してしまったほどだ。気がついて周囲を見回すと、そう多くはない観客も、大半はいびきをかいていた。
それほど退屈な映画だったはずなのに、映画館を出て見ると、イタリア映画のほうはすっかり忘れてしまい(実際、映画の題名さえ思い出さない)、『去年マリエンバートで』だけが印象に残った。どうしてももう一度観たいと思い、映画館を探し回り、そのあと数回『去年マリエンバートで』を見に行った。何回見ても、さっぱり分からなかった。分かったのは、主演女優デルフィーヌ・セイリグの輝くばかりの美しさだけだった。「これは原作を読むしかない」と思い、ロブ=グリエの同名の小説『去年マリエンバートで』を図書館から借りてきて読んだ。しかし、分かったのは「この小説は分からない」ということであった。何回か読み直すつもりでコピーをとったが、それを使うことはなかった。
それなのに、どうしてロブ=グリエの『迷路のなかで』を入手したのか、これもよくわからない。たしかなのは、邦訳の出版の直後に入手し、数頁読んだだけで、放りだしたということだけである。だがこの本も、映画『去年マリエンバートで』と同様に、ひどく気になる作品で、12年もの長い間、書棚の片隅から追い出すことが出来なかった。そして今回は、退屈さと難解さをこらえながら最後まで読んでみた。分かったのは『去年マリエンバートで』以上に訳の分からない作品だということだ。訳者の解説によれば、この小説は一種の「幻想」を読者に追体験させるものだそうだが、そう言われてみても、私はそれもできなかった。
一応は小説だから、筋書きのようなものはある。敗残兵が占領下とおぼしき自国の街で誰かに会おうとして彷徨う。同じような人物が入れ替わり、立ち替わり出てくるが、敗残兵が何故この街をさまよっているかさえ、いっこうに明らかにはならない。迷路にはいりこんだようになってしまい、そこから容易に抜け出せない。敗残兵は実は「戦友」の遺品を遺族に届けるためにこの街に来たのだが、敗残兵は最後には占領軍の銃撃を受けて、あっけなく死んでしまい、遺品は遺族に届くことはない。
概要をまとめればこれだけのことである。敗残兵がさまよう街や彼が入り込んだ部屋の描写が実に細かく、そして執拗に重ねられる。読んでいるうちに、迷路のなかに入り込んだのは、敗残兵ではなく、実は読み手自身ではないかと思うほどである。
この本と比べれば映画『去年マリエンバートで』の方がまだましに思えた。もう一度『去年マリエンバートで』が観たくなった。
アラン・ロブ=グリエ『迷路のなかで』(講談社文芸文庫、1998年)
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