周回遅れの読書報告(その13)

薄田泣菫『茶話』(ちゃばなし)には私の知る限りでも、岩波文庫版と冨山房百科文庫版の2種類がある。ただ私は岩波文庫版を読んだことがない。どこかの書評で、谷沢永一が岩波文庫版は所詮は抄録に過ぎず、泣菫が『茶話』で伝えようとしたものを丸ごと味わうことのできない、不完全な本だと批判していたことが頭の中にあるかもしれない。またそもそもがこの「詩人が書いた随筆」なるものにそう興味が持てなかった。したがって「茶話」を全部収めた三巻もある冨山房版を読むほどの意欲は到底出てこなかった。

古本市で冨山房版がとんでもない安価で出ていたとき、衝動買いをしてしまったが、こういうわけで、しばらく「タンス」ならぬ、「本箱」の肥やしになっていた。今年の異常な暑さの中で、読書の意欲も萎えたときに、ふとこの「本箱の肥やし」に手が伸びた。消夏にはこのくらい軽い本が適当だと安っぽく考えたのだと思う。

結果からいえばこれは失敗であった。上巻を読んだだけですっかりくたびれてしまった。本来「読書報告」は対象となる本を読み終えてからするものであろうが、多分中巻と下巻は当分読むことはないであろうから、とりあえず報告しておくことにする。

谷沢は抄録版の岩波文庫をくさす一方で、『完本 茶話』を高く評価していた記憶がある。その『完本 茶話』はほかならぬ谷沢の編集によるものだ。この姿勢は感心しない。せいぜい二つの版を読み比べてみたらどうか程度にしておくべきではないかと思うが、谷沢の書評がもう手許にない。これ以上のことは言えない。

『完本 茶話』が疲れるのは、泣菫の語り口の辛辣らや女性蔑視──谷沢はこれを高く評価するのであろう──が原因ではない。どうでもいいような話が延々と続くことにある。大正初期の日本を中心とした著名人のこぼれ話や裏話だけを集めた本だから、当然と言えば当然な話である。もともとが新聞の埋め草に過ぎない。こんな話は、一日に一話か二話、読めば十分である。それを何年分も集めたものを一気に読めば「悪酔い」するだけである。冷えたビールは、最初は旨いが、それを10本も20本も飲めば、ひどい二日酔い(あるいは三日酔い)になるのと同じである。谷沢は『完本 茶話』の完成度の高さをうぬぼれると同時に、その読み方について、「一日に二話以上読むべからず」とでもいうべき注意も書いておくべきだった。

それにしても、ここに出てくる当時の著名人の大半が歴史の闇に消えていったのは驚くしかない。新聞のコラムとして書かれたものだから、話の中にも当時の新聞に頻繁に登場する人物が多く出てくる。しかし、そのほとんどは、もはや私には未知の人物だ。政治家、学者、芸術家、実業家の別を問わない。ほんのわずかな例外を別として、100年のうちに皆消えてしまった。そこに歴史の無情さを感じるか、あるいは単にいっとき社会を騒がしただけの者のことを嗅ぎまわること(泣菫がやったのはこれではないか)の無意味さを読みとるか。それを考えさせられたことだけは収穫であった。

薄田泣菫『完本 茶話(上)』(冨山房、1983年)

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