一冊の本を1回で報告することを原則としているが、今回は2回に分けて報告する。どうしても紹介しておきたい文章がいくつかあるからである。
アメリカにリリアン・ヘルマンという戯曲家がいた。名の売れた戯曲家だったらしいが、私は彼女の作品を見たことはない。マッカーシー旋風が吹き荒れる中、1952年5月、ヘンマンは下院非米活動調査委員会に召還された。委員会での陳述の直前に、ヘルマンは友人であった俳優クリフォード・オデッツから夕食に誘われた。その席上でのオデッツ(彼もまた召還されていた)の発言とその後の彼の行動をヘルマンは『眠れない時代』で次のように伝える(訳書34~35頁)。
…すると突然、かれが大声でわめき、グラスのワインがこぼれるほど激しくテーブルをたたいたのにはギョッとした。「[非米活動]委員会でやつらのまえに出たらどうするか、おれはちゃんと決めてある。急進的な人間とはどういうものか見せてやる。連中なんかクソくらえと言ってやるんだ」わたしを感動させたのは、テーブル相手の派手な立ち回りか、近くのテーブルの客が振り向くような絶叫か、どちらだったかは知らない。/その夜の日記はこれだけだが、これには不愉快で不可思議な結末がついている。オデッツはわたしより一日早く委員会に出頭し、それまでの自分の信念を詫び、大勢の旧友の名をあげて共産主義者だと陳述した。そういうわけで、ベルベッタ[一緒に夕食をとった店の名前──引用者]でのあの会話は何だったのか、わたしにはわからない。
どこにでもこういう哀れでみっともない手合いはいるものだ。ヘルマン自身は、オデッツとの夕食の際は、「どうするかわからない」としておきながら、委員会では逮捕覚悟で証言を拒否した。そしてその結果、逮捕こそ免れたが、仕事を完全に失い、経済的には大変な苦痛を受けることになった。ヘルマンが指定された召還の日は5月21日だったが、ヘルマンは19日に「自分のことについては不利益となることも話す覚悟はあるが他人のことは証言を拒否する」という手紙を委員会の委員長あてに書いた。その中に次のような一節がある(訳書65頁)。
…自分を救うために、何年も昔の知己である無実の人たちを傷つけるなどということは、非人間的で品位にかけ不名誉なことに思われます。わたしは、良心を今年の流行に合わせて裁断するようなことはできませんし、したくありません。
これがヘルマンの「原則」である。政治的信条やイデオロギーではなく、生活の基盤となっている「原則」である。ごくごく当たり前の「原則」と言えるかもしれないが、強大な権力を前にこの「原則」を固持するのは、ヘルマンの受けた苦痛を考えただけでもわかるように、容易なことではない。反面、こういう「原則」を持っている人間は、ヘルマンもそうであるように、強靭である。
リリアン・ヘルマン『眠れない時代』(サンリオ文庫、1985年)[次回報告に続く]