周回遅れの読書報告(その35) 芸術と芸能の間

 石川淳の作品と言えば、『普賢』や『焼け跡のイエス』を思い出すのが普通であろうが、そういう作品には強い印象はない。「夷齋」という名で発表された随筆だけが記憶に残っている。その一つ『夷齋俚言』のなかで、石川は次のように言っている。(29頁)

……[芝居小屋は]教会の葬式と違って、生きている人間が遊ぶ権利を主張する場所なのだから、陽気なざわめきは芝居の作法だよ。なに、静粛に願います。冗談だろう。そういう懸声こそ、静粛に願いたいね。
 げんにそのむかし、日本の芝居小屋には桟敷があって、いや、平土間でもそうだが、そこにはあちこちに酒盛りがおこなわれて、諸事ずいぶんぞろっぺいで、かならずしも静粛とはいえなかったけれど、弊害どころか芝居は繁昌、文明の一端を示現していた。……このざわめきは芝居と生活との交流におけるeffervescence[沸騰、激昂]というものだよ。芝居の精神は元来じっとしていることを好まない。その末端現象では、どなるやつもいたわけだろう。

 高樹のぶ子も2003年11月23日付け朝日新聞に次のように書いている。「初期のオペラハウスでは、平土間で庶民が飲食し、上階の個室では貴族が色事にふける貴賎混沌、情念のルツボだった、といいます」。これは石川が、芝居小屋では「あちこちに酒盛りがおこなわれて」いたと言ったことと相通じるものがある。芝居小屋といい、オペラハウスといい、かつて人びとはそこで飲食(や色事!)に耽りながら生活を楽しんだのである。そういう人びとの耳目を引き付けられるかどうか、そこに芸人の良し悪しの判断基準があった。考えてみれば、これ以上はないほどの厳しい判断基準である。芸人たちはそういう厳しさの中で生活の糧を稼いでいたのである。そして、生活の場としての芝居小屋やオペラハウスがなくなったとき、本来の芸人もどこかに消えたのであろう。今は会話もせずに、当然のことに色事に耽ることもなく、静かに観劇することを強要されるだけだ。
 小さかった頃、どこでもそうだったような気もするが、田舎の町にも常設の芝居小屋があった。旅回りの一座が拠点にしていた小屋だったようだ。一座は年に数回しか帰ってこなかったが、来れば必ず家族の誰かに連れていってもらった記憶がある。そんなときは、大人はいつでも飲み物と食い物を持って行った。「おひねり」の習慣はあるにはったが、そんなことや芝居そのものよりも、隣近所の顔見知りとの話のほうに熱が入っていた。そういうなかで、旅芸人たちは演技していた。
 宮廷にあっては芸術は、王侯貴族たちのただの暇つぶしである。だから芸術には余裕ができる。宮廷の芸術家は生活に追われることは無い。逆に「無駄」な日々が芸術にとっては必要不可欠のものだ。そして彼らには、死してなお残る「名声」を得る可能性が与えられる。だが芸能が芸術に変わったとたん、芝居は民衆のなかにいることのエネルギーを失う。旅芸人の芸は「名声」という得体の知れないもののためにあるのではなく、「木戸銭」という食うための手段を得るためだけにある。「木戸銭」は日々の生活に消えて行くが、実体の無い「名声」は残る。それだけのことである。残ればいいというわけでない。時として消えていくものの中にこそ、忘れてならないものがある。

石川淳『夷齋俚言』(文芸春秋新社、1952年)

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