アブラハム・レオンの『ユダヤ人と資本主義』を読んだ時の話である。この本は、第4インター・ベルギー支部の中心的活動家だった著者が、僅か26才でナチの手によって殺されるまでの、ほんの短い時間のうちに、書き上げた本である。非合法活動を強いられ、ほとんど自分の時間がないなかで、これだけの内容の著作をものにできるというだけで、その才能は尋常でないことが分かる。自分がいかに優雅な状態のなかで暮らしているか、そのことを反省するだけでもこういう本は読む価値がある。
ただ、ここで問題にするのはそのような話ではない。『ユダヤ人と資本主義』を読んでいたら、ゾンバルトの『ユダヤ人と経済生活』に対する手厳しい――そして、どうやら正鵠を射ているような――批判にぶつかった。ゾンバルトの本のほうが先に書かれていたのにもかかわらず、ちょっとした行き違いから、ゾンバルトの本を読む前にレオンの本を読むことになってしまった。それでもレオンの本を読んだら、すぐにゾンバルトの本を読むつもりでいた。だが、レオンからこうも手厳しく批判されているのを読むと、『ユダヤ人と経済生活』を読む意欲を何となく、そがれてしまう。
要は読む順番を間違えたということになるのだが、その本の欠点、誤謬をあらかじめ知った上で、改めて読むというのは、犯人を知った上で推理小説を読むというほどではないにしろ、どうも妙なものだ。この場合でいえば、「ゾンバルトはいかにユダヤ人問題を論じているか」ではなく、「ゾンバルトはユダヤ人問題を論じるにあたっていかに誤っているか」を見るためにゾンバルトの本を読むことになるのだが、こういう読み方はやはり変である。
『ユダヤ人と資本主義』ではもう一つ奇妙な経験をした。元々この本を読もうと思ったのは、『大航海』1999年4月号の岩井克人と三浦雅志の対談で、三浦が、「(レオンは)ユダヤ人は金貸しだという話があるけれど、それは本質なんだという。なぜなら、ユダヤ人はつねに……媒介者としてあることを自分自身のアイデンティティにしたからだという」と述べているのを読んだからである。
しかし、『ユダヤ人と資本主義』でレオンが言おうとしているのは決してそういうことではない。レオンはユダヤ人問題の物質的根拠について論じているのであり、マルクスと同様に、「ユダヤ人は歴史のなかで生きてきた」とする視点から、ユダヤ人はなぜ「ユダヤ人」として存在したのか、ユダヤ人「問題」がなぜ生じたのか、を分析している。
レオンは、ユダヤ人をア・プリオリに「媒介者」とはしない。封建社会の自然経済のもとでは、ユダヤ人は「媒介者」として生きたというにすぎない。そして逆に、封建社会が崩れた瞬間に、ユダヤ人問題が発生したことを強調する。『ユダヤ人と資本主義』に次のような文章がある。
ゾンバルトの推論、高利貸しは「ユダヤ人種」の特質を示している、は全く筋が通らない。/[それは]問題を逆立ちさせるようなものである。……逆に彼らの経済的地位が彼らの才能やイデオロギーを説明するのである。[170-1頁]
この言う文章を読むと、今度は、三浦の言うようなことが理解できなくなる。レオンはユダヤ人であった。だからこそ、そのユダヤ人論は鋭くなるのであろう。レオンが、ユダヤ人について何を言おうとしたのか、もう少し彼に聞いてみたかった気がするが、歴史はそれを許さなかった。この本はその非情さを思い知らせてくれる。
アブラハム・レオン『ユダヤ人と資本主義』(法政大学出版局、1973年)
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