周回遅れの読書報告(その43)定住漂泊

金子兜太が死んだ。2018年2月20日のことだ。俳人だった。俳句には何の関心もないが、金子の言葉である「定住漂泊」という言葉が好きである。4年前の2月に、神保町の古本屋で『定住漂泊』を見つけた記憶がある。その時買いそびれ、後日市立図書館から『金子兜太集 第三巻』を借りて来て、この中に収められていた「定住漂泊」を読んで、抜粋を作った。それが2014年3月05日のことである。やや長くなるが、その時の抜粋を書いておく。

諾うにせよ、絶つにせよ、気分の無と争うとき、流魄の情念は燃える。精神といえるものがその争いのなかに見えてくるとき、流魄は求道のおもむきを具える。私は、この争いのなかの流魄情念を定住漂泊と呼ぶわけだが、その有り態は一様ではない。一様ではないが共通していえることは、日常漂泊のように日常性のなかに流れないことだ。逆に、日常のなかに屹立するのである。屹立させるものが、その者の心機にある。そこに詩もある。
(7頁)
現代のいま、日常漂泊のひろがりを見る。都市住民はもちろん、農山村住民も流魄の日常に画しているわけだが、その自分に気づかぬまま、しだいに日常漂泊のなかに入ってゆく。相応の物質があり、日々を糊塗しうる小歓楽があり、ささやかな愛憎があれば、それが流魄を癒すというのであろうか。それだけに、定住漂泊者のみが、もがき、あせり、喚び、そして、ときに確然と無に立ち、ときにひょうひょうと(自然)に帰してゆくばかりである。だから、彼らの屹立じたいが、まことに孤立的なのだ。
(10頁)
金子兜太「定住漂泊」『金子兜太集 第三巻』(筑摩書房、2002年)所収

定住をやむなくされても精神は漂泊たらんとすればいいのであろうが、精神が漂泊することは決して簡単なことではない。そのことは上の抜粋からも分かる。日常の中に流れることなく、逆に日常の中に屹立することが必要なのである。日常に流されがちな気分に抗うこと、そこから精神の漂泊ははじまるのである。逆に言えば、志を高く持って、時代、権力や怠惰なるものに簡単に迎合しない者は、誰であれ定住漂泊者ということでもある。金子から「定住漂泊」のうちに生きるということを教えてもらいながら、長い間私はそれを忘れてしまっていた。金子が死んだというニュースを聞いて、やっとそれを思い出した。
金子が死んだのは20日であるが、報せを聞いたのは21日である。21日に私は所用で神戸にいた。時間があったので、元町のアーケード街を散歩のように歩いた。古本屋があったので寄ってみた。そしたら本棚に金子の『定住漂泊』があった。4年前に一度神保町で見て以来、一度も会ったことのない本である。その本に、神戸の古本屋で、しかも、著者の死亡の知らせを聞いた日に会うとは。過去に一度読んだ本であるが、「買って帰れ」と言われているようで、ろくに中身も確かめずに買ってきた。
夜、元町駅近くのホテルで新聞を読んだ。地元の新聞(神戸新聞)は金子が日銀にいた頃、神戸支店に長く勤務していたこともあり、金子の死を大きく報じていた。買ってきたばかりの『定住漂泊』を机に上に取り出して、同じ時代の空気を吸った人間がまた一人いなくなったことを思いやった。金子のことを語る資格は私にはない。ただ、まだ死んでは欲しくなかったと思うだけだ。
金子兜太『定住漂泊』(春秋社、1972年)

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