周回遅れの読書報告(その52) 成熟した市民とは

アナキスト的人物であったファイヤアーベントの『方法への挑戦』は、いまさら紹介するまでもない。科学哲学を扱った高度の内容の本であり、私如きものには正確に理解することは到底できなかった。内容もほとんど覚えていない。まるで理解できなかったのであるから、それも当然であろう。そんな本について報告するというのは、いささか気恥しい気もする。
ただ、科学とどんな風に向き合わなくてはならないか、そしてイデオロギーをどう処理するかということについては、襟を正さなければならない刺激的な文章に接した、という記憶がある。科学とはその底にイデオロギーを持ったものだというのが、ファイヤアーベントの主張のようだ。こういう主張に初めて接した。理系の諸氏には当たり前の話かもしれないが、「科学の中立性」という神話の中で生きてきたせいか、少し驚いた。当然とまどいもあった。しかし、社会が「イデオロギー的に硬直化した科学の抑圧的支配」下にあると言われれば、確かに反論はできない。また、批判的合理主義も一種のイデオロギーであるというのは事実であろう。近代科学はその底にそういうイデオロギーを確かに持っている。
ここで紹介するのは、そういう「高尚な」話ではない。「市民」を巡る言説である。記憶に残っている一文に、次のようなものがある。

成熟した市民とは、ピューリタン主義や、あるいは批判的合理主義のような特殊なイデオロギーによって教育され、いまやこのイデオロギーを精神的な腫れ物のように持ち歩く人間のことではない。成熟した市民とはどのようにして決心するかを学んだ、そして自分に最も適すると自ら考える事柄に向けて決心した人物のことである。彼はある精神的頑強さを持ち(彼は彼がたまたま出会った最初のイデオロギー上の演歌師に首ったけになりはしない)、それゆえ彼に最も魅力的に思われる仕事を、これに呑み込まれるのではなくて意識的に選択することができる人物なのである。427頁

また「成熟した市民とはどのようにして決心するかを学んだ、そして自分に最も適すると自ら考える事柄に向けて決心した人物のことである」とする一文は、銘記するに値する。こんな文章に接すると、「自分はとても『成熟した市民』ではないな」と思わざるを得ない。しかし、「成熟した市民」をこんな風に定義した場合、現代の日本にどれだけの数の「成熟した市民」がいるのか、と思ってしまう。そういう「成熟した市民」が圧倒的に少ないから、今のような状況が生まれているのだと言われればそれまでだが、こんな「成熟した市民」が多数になる社会が生まれることは、絶望的に困難であろう。少数の「成熟した市民」が大きな影響力をふるえる社会だったら、可能性はある。しかし、そういう社会をどうやって創り出すのか、ファイヤアーベントは答えていないような気がする。「そんなことは一般的に言えることではない。具体的現実的状況の中で、自分で考えることだ」と、彼は言うのかもしれない。あるいは、「まず、君自身が『成熟した市民』になるよう努力すべきだ」と言うかもしれない。彼なら、そう言いかねない。しかし、それができるようなら苦労はしない。難しい宿題を出された生徒のようなものだ。「できませんでした」と報告したらファイヤアーベントはどんな顔をするのだろう。
ファイヤアーベント『方法への挑戦』新曜社、1981

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