周回遅れの読書報告(その55)本を読むことと考えること

 丸谷の本を取り上げるのは2回めである(最初は、その46の『笹まくら』)。最初の報告も奇妙な報告であったが、今回もまたそうなる。「本を読むのも考えもの」というのが今回の報告の主題である。この報告は読んだ本にかかる報告であるが、その暗黙の前提には、本は読んだほうがいいよということがある。それを、「本を読むのも考えもの」だというのだから、今回は妙な報告になる。
 丸谷才一は、『思考のレッスン』で次のように書いている。

 まとまった時間があったら本は読むな……。本は原則として忙しいときに読むべき……。まとまった時間があったらものを考えよう。(141頁)

 本を読んでいて、「まとまった時間があったら本は読むな」といわれたのはあまり記憶にない。しかし、考えてみたらそうかもしれない。ショーペンハウエルが言ったことだと思うが、本を読むことは他人の頭で考えることに他ならない。まとまった時間を、他人の頭を使って考えることに使うということは、ある意味ではばかばかしいことである。自分の頭で考えようとするならば、あるいは独創的であろうとするならば、間違いなくそうである。時間があったら、自分で考えるべきだということになる。本なんてものは、まとまった時間がとれないときに、つまりは考え事をするのに不適当な時間しかないときに、時間の有効活用の観点から読めばそれでいいと思った方がいい。そしてその方がよほど効率的に本が読めるかもしれないのだ。時間がたっぷりとあるのであれば、そんな時間を読書に費やすことは愚かなことだ。
 丸谷はこの本で、何回も読書に時間を割くこと戒めている。「何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと」(182頁)だとし、本を読むのはそれからだ、とする。「慌てて本を読んではならない」(203頁)ともいう。そんなことをしたら、頭の中に隙間ができなくなってしまうのというのが、その理由だ。
 アイデアの浮かんでくる場所として三上というものがある。「馬上、枕上、厠上」がそれである。Bで始まる場所でアイデアは生まれる言われることもある。Bus、Bed、Bath、がそれである。ほとんど「馬上、枕上、厠上」と同じである。洋の東西を問わず、アイデアが生まれるのは、同じ場所のようだ。丸谷に言わせれば、こういう場所では本は読めない。だからいいのである。一番いい例が、歩いている時だ。アイデアは歩いているときに生まれることが多いが、歩いているときは本は普通は読めない(もちろん、二宮金次郎のような例外はある)。本を読まないことで頭の中に隙間ができるのである。
 年をとるとともに、本を読むのがだんだんと辛くなってきたが、そういうなかで、「本を読むのも考えものだ」という文章に出会うと、救われる気分になる。時間があったらまず考えよ、考えて考えて、考え疲れたら、それから、ヒントを探すためにか、気分転換のためにか、本を読めばいいということになる。
逆に言えば、忙しいほうが、隙間を縫って読書ができるということになる。考えてみると、たしかに暇な時よりも、忙しかった時のほうが本は読めた気がする。しかし、それは「考えるための時間がとれなかった」ことを意味していたのかもしれない。
 「忙しくて本が読めない」ということは、ありえないが(隙間の時間を利用すればいいだけのことである)、たくさん本を読んだというのは、考えることをあまりしなかっただけのことかもしれない。まさしく「本を読むのも考えもの」である。
                  丸谷才一『思考のレッスン』(文芸春秋、1999年)

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