大学で理科系の教育を受けた(したがって経済学を専攻しなかった)経済研究者は決して少なくない。古くはヒルファディングがそうであるし、ケインズに先立って有効需要の原理を論証したとされるポーランドのカレツキもそうだった。これは他の社会科学には見られない経済学の特徴の一つかもしれない。経済学にはどこかに自然科学との共通性があるのであろうか。本書(『成長停滞から定常経済へ』)の編著者である河宮信郎も、大学では工学部で自然科学を専攻している。ウォール・ストリート(金融経済)よりもメイン・ストリート(実体経済)を重視しなければならないとする河宮の根幹的主張もまた、自然という実体をもったものを対象として研究をスタートしたことが、あるいはどこかで影響しているのかもしれない。
ウォール・ストリートよりもメイン・ストリートが問題だという主張は、2007年以来の世界経済の混乱がウォール・ストリートから発してメイン・ストリートを飲み込んでしまい、世界が今だに、失業等のその後遺症に苦しんでいることを見れば、実に納得のいく話である。河宮は、今回のアメリカ発の金融危機を惹き起きした新自由主義経済学の主張とその問題性を詳細にフォローするなかで、その破綻を鋭く指摘している。
またこれに関連して河宮は、バーチャルな富に過ぎない貨幣資産はどこかで必ず実物資産の制約を受けるとする、F・ソディの理論を丁寧に紹介する。ソディもまた本来は自然科学(核化学)の研究者であったという。河宮も言うように、ソディはほとんど忘れた研究者である。河宮はそれを掘り起こし、経済研究の新しい(「忘れられていた」というべきか)視点を示している。本書の表題になっている「定常経済」に向けての切り替えの提唱もその視点から来ていると言える。
河宮は、「定常経済」は、経済学の「祖」というべきケネーの経済表にその始原を持つとする(河宮はケネーの経済表を「定常・循環経済」の観点から再構築している)。このケネーの経済表は、マルクスの再生産表式に受け継がれたものであり、経済活動を「生産」の側面から分析する、広い意味での「古典派」のベースとなっているものである。ケネーの経済表がそうであるように、マルクスを含む「古典派」の生産は「再生産」という循環過程総体を観察するものであった(これが、「消費」の観点から、単線的な観察を行う「新古典派」との大きな違いである)。
河宮は、再生産(循環)という観点を忘れた「持続可能性を失った成長主義」は今や限界を迎えたとする。しかし、「成長主義」を捨てて、直ちに「定常経済」に方向を切り替えることは容易でない。グローバリズムの急速な進展を考えれば余計そうである。ではどうするか。河宮は、かつて池田内閣で「所得倍増計画」の立案の中心にいた下村治が「保護主義こそが国際貿易の基本ではないか」と言っていたことを、そのヒントとして示す。
共著者の青木秀和の諸論文と共に、河宮の主張から学ぶべきものは多い。
河宮信郎編著『成長停滞から定常経済へ』(中京大経済学部経済研究所、2010年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0328:110207〕