問題点を鮮明にするため、いまここで次の問題設定を行なう。人間が人間になる前の世界を「自然的自然」ないし「裸の自然」とし、人間が自然を加工し人間自身をも人間へと加工した段階の世界を「自然の社会化」ないし「社会化した自然」とし、その「社会化した自然」がさらに再自然化した段階の世界を「社会化した自然の再自然化」ないし「物象化した社会」とする。そうすると、以下のことが導かれる。裸の自然(物的実体)=自然的力(力の第一形態)が、労働(原始労働)による自然の社会化および儀礼による労働の組織化とを通じて、社会化した自然(生産物・生産関係)=社会的力(力の第二形態)となる。それはさらに、分業すなわち社会化した自然の再自然化あるいは社会・生産関係の自然化を通じて、物象化した自然・社会(商品・所有関係)=自然的力(力の第三形態)に再転化する。
上記の理論的推移の中で、「儀礼による労働の組織化」に必要な存在として神々が産み出されることになる。儀礼は、まえもって神を前提にするのでなく、その後に神を創り出す行為である。たとえば、先史時代のケルト人やゲルマン人は、風に声を投げかけてこれを神となし、樹木の周りをグルグル回ってこれを神となした。先史時代の地中海人は、マルタ島などで母神の格好をした神殿をたて、ヴァギナの門から神体=子宮にはいって声と動作の儀礼を挙行した。その際、声をかける所作=発声すなわちレゴメノン(legomenon)と、グルグル回る所作=動作すなわちドローメノン(dromenon)と、この二つで一つの行為が、本来の儀礼である。この儀礼を通じて、単なるモノ(Ding)が人間と同等の存在(Wesen)になる。こうして、可視の物体や自然現象(Ding)が神(Wesen)の座につくのである。
そのことを、フォイエルバッハは十分理解していたので、「神であるもの、宗教的尊敬の対象であるものは、何ら事物(Ding)ではなくて存在者(Wesen)である」と述べることができた。また、こうも述べることができた。「あらゆる対象が人間によってただ神として、または同じことだが、宗教的に尊敬され得るだけでなく、実際に神として尊敬される。この立場がいわゆるフェティシズムである。そこでは人間はあらゆる批判と区別立てとを抜きにして、人工物であれ自然物であれ可能なかぎりすべての対象・事物を己れの神にするのだ」。
たとえば先史・古代ギリシア世界において、デーメーテール崇拝とディオニューソス信仰、マリア崇拝とイエス信仰、そのすべてに原初形態(ドローメノン型)と洗練形態(ドラーマ型)がある。デーメーテール崇拝とディオニューソス信仰の洗練形態はギリシア・ローマ神話とその後の神話学に、総じて〈ロゴスとしての神話・メタフィジカルな神話〉に刻印されている。マリア崇拝とイエス信仰の洗練形態は新約聖書とその後のキリスト教神学に刻印されている。それに対してこれらすべての神々の原初形態、総じて〈ミュトスとしての神話、フィジカルな神話〉は、例えば『金枝篇』のフレイザーが19世紀の具体例を我々に書き残してくれたように、世界各地の農耕儀礼や冠婚葬祭儀礼に生きたまま維持されている。カニバリズム(神的存在の殺害と共食儀礼)はその代表例である。ここでは、神々は物質的(materialistisch)に崇拝されるのである。物質(materia)なくして崇拝の核は生じない。
人類は動物の仲間であるが、動物とちがってホモ・サピエンスというにふさわしい知恵をもつ。知恵をもつ人間が先史時代からもっとも重要なものと感じてきたものは衣食住ではなく、神――ないし神的事物や神的存在――である。これなくして人間社会は存続しなかった。先史におけるそのような神的事物の代表は「土」であり、神的存在の代表は「母」であった。「土」「母」双方とも、大元、根元、といった意味を持っている。
土のことをヘブライ語で「アダマー」という。ローマ字で綴ればadamahとでもなろうか。女性名詞である。このアダマー=土から「アダム(adam)」が造られた。すなわち、ヘブライ世界で大元は母=女であり、これから人=男=アダムが生まれるのであった。その有様は、あたかもX染色体からY染色体が生まれるがごとくである。ユダヤ教徒になる以前のプレ・ヘブライ人は母=アダマー神信仰を隠さなかったとみえる。文明時代になってから成立した旧約聖書によれば、始めにヤーヴェが森羅万象を創造しつつアダムをこしらえたのであるが、先史のプレ・ヘブライ世界では、始めに森羅万象あるいは大地(アダマー=女)があって、そこから人(アダム=男)が生まれヤーヴェが生まれたのである。いったんヤーヴェが生まれると、今度は事態が逆転して、神が男をつくり、神がその男から女をつくることになった。
母のことをラテン語で「マーテル」という。materと綴る。ギリシア語では「メーテール」といい、ローマ字で綴ればmeterとなる。母という意味のほか、大地、物質、大元という意味をあわせもつ。先史のオリエントや地中海世界に最初に誕生した神々の多くは母神であった。母はすべてを産み出す大元である。端的に「母」という名の神がいる。ギリシア神話に出てくる「デーメーテール」がそうである。母ないし母の身体が人間的世界のすべてを産みなすのである。
だが、その母神とて最初から存在するわけではない。そのような存在の出現を待ち望む人々がいて始めて産み出される。その後は、これを崇拝する信徒がいて始めて存在しうるのだった。信徒たちは、ときに母神を殺し、改めて産み直す。すべてを産むはずの神それ自体が、実のところこれを崇拝する人々によって断続的に産み直されているのである。
その際、人々が彼らに必要な神的存在を創りだす構えないし行動をドローメナ(dromena)という。もとはギリシア語であり、複数形をドローメノンという。日本語では「神態的所作」ないし「神楽的舞踊」という。いっそう詳しく述べると、これは神楽的舞踊と神語的唱誦=レゴメナ(legomena)による儀礼、身体を動かす儀礼に特徴づけられる。神は人間身体のドローメナとレゴメナとを通じて産み出されるのだった。
ところで、上記のラテン語mater の基になったか、同一の起原をもつ兄弟語と推測される単語として、フェニキア語のmotがある。紀元前13世紀頃書きとめられたと推測されるサンコニアトン断章(フェニキア神話)によると、宇宙の始原は「雲と風をともなった暗闇の大気」「暗闇の濁ったカオス」であったが、やがて風たちが両親に魅せられて交わりを持つと、そこからモト(mot)すなわち泥(mud)が生まれ、それが破裂して光、太陽、月、星が生成した。また風コルピアスとその妻バーウとから「いわゆる死すべき人間たるアイオーンとプロトゴノスとが生まれた」。
この段階において、いまだ神々は存在しない。やがて神々が存在するようになるが、それらはむしろ自然に備わる自然の断片を素材(mater)にして人間がつくりだしていた。サンコニアトン断章から推測される先史フェニキアの自然界には、こうして自然と人間と、その人間がつくった神が共存したことになる。フェニキア人の生活原理はmater主義すなわち唯物論(materialism)だった。
ただし、彼らの世界は、ただ物だけの世界でなく、様々な神や神性を次々と産み出す世界であって、唯物的な生活を信条とするフェニキア人であればこそ、たくさんの神々を崇拝した。要するに、materialismが神々の親なのである。その際、materialismとは、現在であれば唯物論と訳すのが順当であるが、先史の用語法をもってすれば、「根原主義」とか「母原理」とかと訳せる。そう訳せば、これはカオスと同類の言葉とも解釈できよう。
参考文献
石塚正英『フェティシズムの思想圏』世界書院、1991年
石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年
石塚正英『感性文化学入門』東京電機大学出版局、2010年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study389:110508〕