浅田次郎の作品を初めて読んだ。泣いた。
主人公は退職歓送会の帰路、脳梗塞で倒れる。作者は、死の床にある男の脳裏に浮かぶ回想と幻影を描いていく。その内容は、少年時代から現在に至るまでの65年の人生の、思い出深い場面である。男の精神は、時に、身体をベッドに残して外へ浮遊してゆく。
両親を知らずに育った男は、苦学力行を経て「いい大学を出て大手商社のエリート」の生活を過ごしてきた。意識を失なったと見える彼が、病床で幻視したものには、見知らぬ年上の女との不思議な語り合いもあった。
男の生きた時代は戦後70年間である。彼の回想は個人的なものと社会的な事件に彩られている。
男はノンポリだったらしく学生運動の回想は少ない。むしろ、彼が生まれた1951年の前後、日本社会がまだ混乱していた頃の、たとえば米軍空襲による被害者たち、占領軍米兵と日本人娼婦、中間層が形成される前の人々の貧しさ、朝鮮戦争による景気回復、それらが、細部にわたり活写される。
両親のない主人公の設定には違和感が避けられない。
戦後物語の多くは、高度成長による家族共同体の崩壊過程を描いている。主人公の妻も両親が離婚した不幸な生い立ちの人物である。共同体のない環境からの出発を描く作家はなにを意識しているのか。ここには伏線がある。しかし主人公は、世間的には豊かで幸福な家庭を築き「経済の戦後」という価値を具現した。
この舞台設定の意味は最後の数十ページで解明される。私は浅田次郎の魔術、または、プロの技に翻弄された。作家の眼は、「戦争の過酷と人間の業」を凝視する。悲劇は、再びの戦争や社会政策によって、解決できるのか。文学の存在理由の一つは、かかる問題提起であることを示している。
私は、溝口健二が『雨月物語』(1953年・大映)で、京マチ子・田中絹代・水戸光子・森雅之・小沢栄によって表現した「戦争の過酷と人間の業」を、浅田次郎も文字によって表現していると感じた。
主人公はこのベッドで死ぬのだろうか。私は、野上弥生子の『迷路』の最後の場面を想起した。八路軍の投降勧告を容れて死の脱走を試みた主人公菅野省三は、背後から帝国陸軍の銃に撃たれる。倒れて意識を失った省三の生死を書かずに野上は長編小説を終えた。
本書の帶に、浅田は「同じ教室に、同じアルバイトの中に、同じ職場に、同じ地下鉄で通勤していた人の中に、彼はいたのだと思う」と書いている。野上弥生子はある文章で、帰国した省三は民衆のなかに生きているだろうと書いた。
『おもかげ』の主人公竹脇正一(たけわき・まさかず)も、彼と戦後を併走した読者のなかに生き続けるであろうと私は思った。(2017/12/15)
■浅田次郎著『おもかげ』、毎日新聞出版、2017年12月刊、1500円+税
(『毎日新聞』、2016年12月~2017年7月の連載小説の単行本化)
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