喜寿を迎えてなお過激に生きる -知識、見識よりも胆識をめざして-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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 喜寿を迎えることができたのはやはり感謝しなければならない。しかし浮かれているわけにも行かない。今後の人生をどう生きるつもりかと問われれば、いのちある限り過激に生きたいと思案している。知識、見識を広くし、深めるのもよいが、あえていえば胆識をめざしたい。
 胆識とは時代の変革にかかわっていく実践を指している。目下最大のテーマはどういう安全保障観を打ち出すかである。横行している軍事的安全保障は混乱と破壊を招くだけであり、それとは異質の真の「平和=非暴力」を築く「いのちの安全保障」を提唱したい。これこそ21世紀版胆識の実践といえよう。(2012年9月25日掲載)

▽ 喜寿を迎えて想うこと

(1)知識、見識よりも胆識をめざして
 私(安原)は2012年喜寿(77歳)を迎えた。心したいのは、喜寿と共にどういう生き方に努力するか、である。あえていえば、21世紀を過激に生きることをめざしたい。
 稲盛和夫・日本航空名誉会長は先日、再建後の日航の株式再上場後、NHKのインタビューに答えて「これからの日本に必要なものは蛮勇だ」と語った。大量の人員整理に蛮勇を振るったことなどが胸中に去来したに違いないが、これからの日本の変革のためには、蛮勇よりもむしろ「胆識」(たんしき)の重要性を指摘したい。

 胆識とは聞き慣れない表現だが、ご存知の知識、見識よりも新たに胆識を21世紀という時代が求めているともいえよう。知識、見識に比べて胆識はどう違うのか。単純化して言えば、以下のようである。
*知識=大学生レベルのもの知り
*見識=本質をとらえる、すぐれた判断力。知識を活用し、生かすこと
*胆識=胆力と見識。実行力を伴う見識(デジタル大辞泉による。普通の辞書には載っていない)
 私の理解では、21世紀版胆識は仏教経済思想に支えられた「いのちの安全保障」の実現を求めて模索を続けることにほかならない。

(2)「いのちの安全保障」の特質はなにか。
 「いのちの安全保障」(安原の構想)とは、まず「軍事的安全保障」(軍事力重視の現在の日米安保体制がその具体例)を拒否する。さらに「人間の安全保障」(国連「人間の安全保障委員会」報告書=2003年国連事務総長に提出=人間、経済成長、市場経済の重視など)を超える次元で構想する。新しい「いのちの安全保障」の柱は次の六つである。
1.人間にかぎらず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
2.平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
3.人間と自然の平和共存権を重視すること。
4.非武装中立の立場を打ち出すこと。
5.平和のための「簡素な経済」をつくる構造変革をすすめること。
6.思想的基盤として仏教経済思想を据えること。

(3)日米安保体制の呪縛から自らを解放するとき
 21世紀を過激に生きるとはなにを意味するのか。あえて一つだけ挙げれば、日米安保体制の呪縛から自らを解放することである。いいかえれば米国離れを促進させることである。これは反米を意味しない。真の意味での日米平和友好関係を新たにつくっていくことにほかならない。
 端的にいえば、日米安保体制はいまや「諸悪の根源」であり、「百害あって一利なし」である。なぜそういえるのか。
*日米安保条約は日本の自衛力増強を明記しており、平和憲法の誇るべき理念(非武装の九条など)と矛盾している。
*安保条約によって日本列島に巨大な在日米軍基地網がつくられており、こうして日本列島が米国の大義なき戦争を自動的に支援する不沈空母としての機能を果たしている。
*日米安保体制を背景に日本は在日米軍基地を許容することによって、米国の海外での大量殺戮に手を貸してきた。

 以上は日米安保体制の素描にすぎない。しかし八つのキーワード ― いのち、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を尊ぶ仏教経済思想の立場からは日米安保体制はとても容認できない。過激の英訳radical は根源という意味だから、過激に生きることは、呪縛、固定観念、常識にとらわれず、自由な境地になって根源を問い直しながら生きようと精進を重ねることである。これは私なりの「21世紀版ご奉公」のつもりである。もちろん米国の国家権力とそれに追随する僕(しもべ)たちへの奉公ではない。いのちを慈しみ、暴力や貪欲を排し、さらに共生、簡素な暮らし・経済、利他的行動、多様性、持続性を心から願っている人々へのご奉公である。

▽ 古稀を境に考えたこと

(1)座右の銘「老いてますます過激に」
 私は2005年古稀(70歳)を迎えた折に、「できるだけ過激に生きることを心構えとしたい」と題する以下のような一文を書いた。そう考えたのは、ザ・ボディショップ創業者のアニータ・ロディックさん(当時63歳)の座右の銘「老いてますます過激になる」(『朝日新聞』05年11月19日付be版)を目にしたのがきっかけである。以下のような想いは今(2012年現在)もなお変わってはいない。

 ザ・ボディショップは日本も含めて53カ国に店舗があり、世界的に知られる天然化粧品企業である。その経営方針は利益第一主義を排し、動物実験反対、環境保護、人権擁護、従業員の個性尊重であり、創業者の彼女自身が社会活動家でもある。私はこの経営方針に以前から注目し、足利工業大学教員時代に経済学講義で企業の社会的責任というテーマで何度も取り上げた。
 日本の明治時代の財界指導者、渋沢栄一は自ら「論語・算盤」説、つまり企業にとって利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だという経営方針を実践したことで知られる。ロディックさんは、「おんな渋沢栄一」という印象がある。

(2)「おもしろく」生きた高杉晋作
 過激に生きるとは、どういう生き方なのか。歴史上の人物として例えば幕末の長州藩志士、高杉晋作をあげたい。高杉は29歳という短い生涯だったが、その辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。知友が見守る中で、こう書き遺(のこ)して息絶えたというが、ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いたという心情がよく表れている。
 この句を21世紀の今日、魅力あるものと思うのは「楽しく」といわずに「おもしろく」という表現を使ったことである。楽しくとおもしろくはどう違うのか。

 「楽しく」は安全地帯に身を置いた保守、受身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむという発想である。一方、「おもしろく」は危険をも辞さない自由、挑戦、創造のイメージがある。そこにはロマン、志、さらにまだ出来上がっていないものを新たにつくっていく未来志向をうかがわせる。
 高杉がこの違いを意識してあえて「おもしろく」といったかどうかは分からない。しかし幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造するために生きたことは、たしかにおもしろい人生であり、「わが人生に悔いなし」と思ったに違いない。これが過激に生きた人物、すなわち歴史における胆識実践の一例である。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(12年9月25日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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