断捨離のさなか、図書や資料の処理に苦慮している。必要に迫られて購入した図書や雑誌、いただいた図書や雑誌、コピー資料などがあちこちから出て来てしまって、始末に困っている。図書館勤めが長かった習性か、たんなるズボラか、その後も細々、ものを書き続けているためか、一度利用した資料でもしまっておいた結果である。
ここ5年、一度も開いたことのない図書で、古書店に引き取ってもらえそうなかどうかが一つの目安である。劣化があまりひどいものや傍線、マーカーなどが目立つものは廃棄する。一方、私の関心度が高い天皇制、女性史、短歌史、歌人研究に係る図書、雑誌、コピー資料は、これからもがんばるぞ?の自らの励ましの意味もあって捨てられない。自分の著作の保存用とあわせて書評や引用された文献なども捨てがたい。
仕分けしていると、思いがけず、これは貴重と思われるが、残された時間内に、まず利用することもない短歌関係の資料に出くわす。現代詩歌文学館、日本近代文学館、国立国会図書館の所蔵を調べて、問い合わせながら、わずかではあるが、寄贈することにしている。短歌関係では、詩歌文学館の収集量はかなりのもので、二部までは受け入れてくれる。 私が所属している『ポトナム』は創刊百年を超えたが、コピーを仮製本した形で持っていた大正期の一部を未所蔵の詩歌文学館に寄贈した。
また『ポトナム』をまだらにしか所蔵していなかった近代文学館、なんと発行元から寄贈していなかった時期も長く、今後の寄贈をポトナム短歌会の方に依頼した上、手元の近年までの所蔵分を寄贈した。それに、『昭和萬葉集』の選歌を依頼された『ポトナムの』戦前分、講談社が国会図書館やいくつかの大学図書館でコピーし、一年分ないし半年分を仮製本したものを譲ってもらった30冊近いものも、受け入れていただいた。欠号が多く、当時のコピーの性能は劣っていたのか、原本の保存状況が悪かったのか、読みにくい部分もあったのだが、私はこれまでも、たびたび利用していたので、愛着もあったのだが、寄贈できて、ほっとした。というのも、国会図書館の欠号部分も多かったので、コピーの形だが受け入れ可能か、との電話での問い合わせに、コピーは受け入れられないと、断られた資料であった。
また、国会図書館ではこんなこともあった。手元の児玉暁さん*という歌人の個人誌『クロール』を私蔵するよりは、所蔵していない国会図書館にと思い、問い合わせた。ホームページにある「寄贈についてのお願い」という文書にしたがってくださいということだった。以下がその冒頭である。
「寄贈をお申し出くださる方には、次の事項をお願いしています。
・寄贈申出資料の取扱いを当館に一任すること。
・当館が蔵書としない資料は、原則として廃棄します。 当館が蔵書としない資料の返送を希望される場合は、寄贈のお申し出の際にご相談ください。 なお、返送の送料は、寄贈申出者のご負担となります。
・寄贈申出資料について国立国会図書館サーチによる所蔵確認を行うこと。
・寄贈申出資料のリスト(Excel: 12KB)を作成し、資料の送付に先立ち、そのリストを当館に送付すること。」
一読、やっぱり“役人”の書いた文書だな、思った。今年の1月、ともかくエクセルの寄贈申出リストの書式に従って送信すると受信の返信は直ぐ届いたが、その後の寄贈受け入れの有無の返信も返却もないので、廃棄でもされてしまったのかと、11月になって問い合わせた。すると、今度は数日で返信が来た。「カビの処理をしていたので、遅れて申し訳なかったが、受け入れた」の主旨の返信であった。カビ?も疑問だったが、受け入れるまでなんで10カ月もかかるのだろう。それに、メールのやり取りのなかで、一言も謝礼の言葉がなかったのは、どうしてなのだろう。現在も遠隔複写やデジタル資料で、国立国会図書館には随分と世話になっているし、かつて務めていた職場ながら、残念に思うのだった。寄贈の申し出を断るにしても、受け入れるにしても、寄贈者の厚意への配慮がなさすぎるのではないか。
*当ブログの参考記事です。
『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの
(2023年12月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/12/post-0a8ca6.html
最近では、『新胎』(欠号有)と『歌人集団・中の会・会報』1~23号を近代文学館に収めていただいた。『新胎』は田島静香さんから送っていただいた記憶がある。名古屋に住んでいた頃、「中の会」が発足したのを知って会員になっていたらしい。当時は、仕事と子育てで多忙な時期で、その活動に参加することはができなかったが、中の会主催のシンポジウムには一・二度参加した形跡もあった。どちらの資料も、もう利用する機会もないだろうということで、手離したのだった。これも行き先が決まって安堵したところである。
図書館が「寄贈」について、慎重になるのはよく理解できる。大学図書館勤めをしていた時期、在職者や関係者の個人の著作などは別として、退職した教授や大学関係者やまたその遺族からの寄贈申し出があると、頭を抱えてしまう。「○○文庫」として、特別の書架に別置してほしいとか、「○○文庫蔵書目録」を作成してほしいとか、の注文が付けられることもある。書架が満杯に近いので別置は無理、重複する図書や劣化が著しい資料の廃棄などを約して受け入れることが多い。「寄贈図書台帳」のコピーを渡すこともあった。あるとき、退職した先生から「私の蔵書印がある本を古書店で見たという友人がいるが、どうしたわけか」とねじ込まれたこともある。近年、京都市の公共図書館で、桑原武夫からの寄贈図書が放置されていて問題になったこともあった。
かつての職場で、近世文学専攻で書誌学者でもあった教授が、自ら収集した資料はほとんど古書店から入手したものだから、手離すときも古書市場にまかせて、ほんとに欲しい人の手に渡るのが、資料にとっても一番」と話されていたことも、記憶に留めておきたい
初出:「内野光子のブログ」2024.11.19より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/11/post-3535e2.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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