昨日、近隣の私鉄駅近くの獣医院へ我が家の老猫の薬を貰いに行き、帰りの途中で久し振りに岩波の「世界」が読みたくなり田舎にしては規模が大き過ぎる程の昔から馴染みの書店に立ち寄り探したのですが、雑誌のみならず岩波の書籍が全て書棚に無いのに気付きました。
改めて店内を見渡しますと、岩波処か単行本自体が無くなり書棚に在るのが全て少数の新書、或は地図等になり、書店と言うよりも雑誌と文房具店に模様替えしたかのようでした。
なる程、本が売れない、と言うことか、と納得出来得たようでもあり、寂しさが募るようでもあり、連想で数年前に老舗の古書店の御主人と交わした遣り取りを改めて思い出したのでした。
と云うのも、我が家の一部屋が長年の間に書籍で満杯になり、整理するにも出入りもままならず、思い余って長年馴染んだ古書店に相談し引き取りを依頼した処、今では古書の引取り依頼を受けていない、と言われたのでした。 以前に古書購入の折に打診した処では、電話頂ければ引き取り出張致します、とのことであったのでしたが、暫くの間に当の古書店の経営状況が古書の引取り出張を許さない事情にまで悪化したとのことでした。
止む無く、無料引き取りを他店に依頼したものの、書籍の整理まで依頼は出来ず、自ら整理出来得た古書の山のみを引き取りして貰ったので、未だ未だ、未整理で書棚に満載の古書が残っていて頭が痛い昨今です。
これは詰まり、嘗ての読書家(?)と、書店ともども本離れ、と言う訳です。
自身の事情が世間に普遍的に及ぶ訳ではありませんが、出版社・取次・書店の破綻や転業が激しいのは、事実であり、長年馴染んだ書店の廃業も相次いでいます。 例えば、大阪は北の駅前に在った旭屋本店は、今は無く、阿倍野の老舗ユーゴー書店も在りません。
代わって出来たのが、書店か倉庫かも判然としないまでに、書棚にならぶ書籍の分類が無茶苦茶な大規模書店(?)が跋扈していて探すのに時間がかかるので、ネットで注文した方が時間経済上はその方が有利と判断して今では、書店へ行くことが殆ど無くなりました。
今は無き老舗の書店ならば、分類が正確で当該分類の書棚に整然と並べてありました。 それはまるで図書館のようでした。
さてもう何年も前のことですが、廃業された出版社の事例では、英語の参考書では名高い書籍を発行されていた文建書房と云う小さい会社がありました。
この出版社からは、故山田和男氏の書籍が記憶に新しいのです。 そしてその著書の中には、「野球の英語」と云う参考書がありました。
因みに、故山田和男氏と言えば、「クラウン和英辞典」と云う御一人で編纂された実に実用に向いた辞書もあり、私等は、今でも御世話になっている程に生きた英語を教える大家として有名であった方です。
その先生が出された野球の英語に特化した参考書でしたので、当時の英語紙誌から抽出された実例が満載の参考書であり、今でもMLBの中継を視聴する際には、役立つ程なのです。
そう。 私は、MLBのデトロイト・タイガースのファンですから。 勿論、日本では、阪神タイガース命ですが。
ネットでデジタルの時代に在りながら、山田先生が英語紙誌からカードの紙片へ自らタイプで抜書きされた用例が役立つ、とは、先生が今、この世の様を御覧になれば如何に批評されるであろうかと想像するのです。
どの分野に於いても本物は、時代が変われども値打ちは変わらない、と云うことでもあるのでしょう。
オックスフォードでもケンブリッジでも、現代の実用辞書であれば紙面・デジタルを問わずに、日常交わす会話から一般詩誌、学術論文まで、更にはネットを飛び交う言辞をも巨大なコーパス(corpus)に集積し、データベース利用で単一言語の辞書には編纂利用可能なのですが、残念ながら山田先生の力量に達し得た和英の人口頭脳が未だ存在しないのです。
先生の編纂された辞書や参考書は、先生が和英に通じておられた処から、データベース作成の折には、既に、それに基づいた言語利用の編纂をされておられた、とも言える訳です。
さて、書店を出て帰りの道すがら色々と考えました。 書籍が無くてもネットが在るじゃないか、とも思えるのでしたが、大多数のネット住民のレベルを勘案しますと暗澹たる思いがするばかりです。
私自身がネット上において意見の交換をする際の意思疎通の不具合を実感した経験が有り、今では、時間とエネルギーの不経済を賭してまで愚劣な遣り取りをすることを拒否しています。
特に、右派の程度の低さには呆れる程で、他人の言説の読解が困難な人が居るのです。 学校の国語の時間に何をしていたのか疑う程です。
大学教育では、学生のレポート提出に当りネット検索で得た情報のコピペを禁止している程ですので、如何にネットの言説が出回っているかの証左とともに、人の劣化の激しさの証左とも言えるでしょうか。
勿論のことに、嘗ての社会で良く観られた教養主義には、極言すると知的アクセサリーを貴ぶかのような欺瞞的雰囲気が感じられ拒否感が強いのですが、昨今のネトウヨに偏在する無知性には呆ける程の距離感を感じもします。
例えば、日銀の金融緩和って、詰まる処は国債の買取りではないか、何故、こんな単純なことが分からないのだろう、と、常々思うのですが、日常で出会う人で同意される人に出会ったことはありませんし、尖閣で日中が衝突しても日米安保では米国が自動的に参戦するとは限らない、と事実を述べても誰もその意味が分かりません。
それは確かに批判のみに終わっては何も変わらない、と私も思います。
「アベノミクス批判は、現状を説明すれば良いだけなので、じつは簡単なこと。だけど、それ以上に大切なのって、『効果のないアベノミクスがなぜ国民から支持されるのか』だよね。」と言われるとおり。
そしてそれは、アベノミクスに止まらない、とも思います。
アベノミクス批判は入り口に過ぎない 財政社会学者 井出英策のブログ 2016-07-25 05:42:26 http://ameblo.jp/eisku-ide/entry-12116474071.html
しかしながら、この疑問、即ち“Why”の一言に応えるのは容易ではありません。
例えるのに古のドラマを引くと、未だにファンが居る英国ドラマ「プリズナーNo.6」(The Prisoner)の或るエピソード(将軍:原題The General)では、村の人民教育プログラムに抵抗するNo.6が一言、コンピューターに語り掛けると忽ち壊れてしまうのでした。
その一言とは、“Why” (何故)であったのでした。 伝説的なドラマであるだけに、今日的な疑問の難易度を既に喝破していたのでしょうか。
“Why”の解を見つけられなければ始末に困り、その際、この国の歴史では、幕末に於ける「ええじゃないか踊り」のような事象が生起することがあります。 当時の民衆には、歴史の狭間における対処法が判然とせず、踊るしか無かったのでしょうか。
とすれば、現代の「ええじゃないか踊り」に、その振りつけ師役としてアベ氏を充てることにこの国の民が決したことに為るのでしょうか。
そうであれば万事休す。
でもね。 日銀に国債を買わせてバラマキ、借金返せずヤケクソで戦争して、もう一回、焼け野原になるの?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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