(2022年11月17日)
安倍晋三元首相の「国葬」を検証する衆院各派代表者による協議会が、14日、会合を開き、参考人の意見を聴取した。
川上和久麗澤大教授、西田亮介東工大リベラルアーツ研究教育院准教授、そして、宮間純一中央大教授が意見陳述をした。
その席で、宮間教授は、今後の国葬実施の「基準づくり」ではなく、「国葬自体の是非が議論されてしかるべきだ」「一人の人間の死を国家が権威付けする理由や目的が不明瞭だ。現代の自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会の中で、特に価値の是非が分かれる政治家の国葬が必要なのか根本的に疑問だ」と述べたという。
さらに、「戦前の国葬は大日本帝国憲法下で天皇から下賜され、民衆の思想・言論を抑圧する装置として機能し、「植民地支配や戦争へ国民を動員することに利用された儀式だ」と指摘し、「日本国憲法下ではそのまま使い回すことはできない」「戦前とどう違うのか国会で本格的に議論されることなく吉田茂元首相の国葬が強行され、『安倍国葬儀』も国葬と何が違うのか不明確なまま実施され、混乱を招いている」とも主張。(以上、主として赤旗による)まったくそのとおりだ。
そもそも「国葬」なんて、国家主義時代の遺物。安倍国葬で終わりにしなければならない。国葬は、本質的な矛盾をはらんでいる。国家・国民の総意としての弔意表明なくしては、「国葬」も「国葬儀」も成立し得ない。さりとて、国民個人には、思想・良心の自由が保障されている。弔意の強制は憲法上許されない。
結局は、「形式上強制は避けつつも、自主的な弔意の表明を要請する」という形で、事実上の弔意の強制が行われることになる。社会的同調圧力という権力のもつ武器が有効に働いて、「事実上の強制」がまかり通ることになる。
なお、常識的に「国葬」といえば、国民の圧倒的な多数が敬愛する人物を対象とする。国民的な敬意と弔意を確認することによって、全国民の一体感を高揚させるに足りる人物。多くの場合には、国葬を通じて偉大な被葬者の意思に沿った国家運営の正当性を確認し、国民を鼓舞することを目指すことにもなる。
安倍晋三は、そのような国葬対象者像とは対極にある。遠慮した物言いでも、毀誉褒貶定まらない人物。そして、人格的な問題を指摘されこそすれ、けっして尊敬される人格者ではない。しかも、政治家稼業三代目のボンボン。庶民の苦労とは無縁でもある。とうてい国民の圧倒的な多数が敬愛する人物ではない。この人物の葬儀を通じて、国民の一体感を確認し高揚することなど、夢想だにしえない。
安倍晋三に限らず、「自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会」に、国葬にふさわしい人物がいるとは考え難い。国家が特定の個人を、国を挙げて弔意を表するという必要がどこにあるだろうか。
天皇や皇族も含めて、一切の国葬を廃絶しよう。弔意の強制なぞまっぴらご免だ。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.11.17より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20303
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12552:221118〕