「一期一会」。2月17日付の新聞朝刊の訃報欄に目をやってとっさに脳裏に浮かんできたのは、この言葉だった。その訃報欄は、在日韓国人で評論家・統一運動家の鄭敬謨(チョン・ギョンモ)さんが、前日の16日に誤えん性肺炎のため96歳で死去したことを伝えていた。人間の一生では、一度しか会ったことがないのに終生忘れ難い人がいるものだか、私にとって鄭敬謨さんはそういう人物の1人だった。まさに、私にとって「一期一会」の人だった。
鄭敬謨さんに会った日時を正確には覚えていない。日記をつけていなかったからだ。が、1979年から80年にかけての時期であったことだけは確かだ。なぜなら、初対面からしばらくして、鄭敬謨さんから、刊行したばかりの著書が私宛に送られてきたが、同書の扉に「岩垂弘様恵存 一九八〇年三月」との書き込みがあり、著者の署名があったからである。
鄭敬謨さんに会ったのは、当時、横浜市鶴見区にあった弁護士・小田成光さん(故人)の邸宅で、だった。
当時、私は平和運動の取材で評論家・中野好夫宅を訪れる機会がたびたびあったが、そこによく出入りしていた人たちの1人が小田弁護士で、そんな縁から親しくおつきあいさせていただくようになった。横浜方面に取材があったので、その帰りにたまたま小田宅に立ち寄ったのだが、そこに2人の来客がいて、その1人が鄭敬謨さんだった。
当時、朝鮮半島情勢や、韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統一問題に関心をもつ報道関係者の間では、「鄭敬謨」はよく知られた名前だった。そして、その「鄭敬謨」なる人物については「韓国の独裁政権だった朴正熙(パク・チョンヒ)政権から逃れて日本に亡命し、韓国の民主化運動や南北統一運動を続けている評論家であり、統一運動家」と言われていた。それだけに、私は「ほう、この人が報道関係者の間で有名な鄭敬謨か」と、思わぬ出会いに心を躍らせた。
応接室で小田弁護士に引き合わされた鄭敬謨さんは、一目で強烈な印象を与える人だった。精悍な風貌、頑強そうな体躯。それは、いかにも「闘士」という表現がぴったりだった。
「闘士」は、初対面だというのに、まるで速射砲のような口調で私に向かって声高にしゃべり続けた。口を挟む暇もなかった。私が出した名刺に所属の新聞社の社名が印刷されていたので、この時とばかりに、日頃、日本の新聞に対して感じていたことを吐き出したかったのかもしれない。いずれにせよ、あまりにも激烈で一方的な口調に、正直言って私は辟易してしまい、話の途中で応接室を離れたことを覚えている。
ともあれ、鄭敬謨さんの舌鋒は鋭かった。矛先の的は専ら韓国の朴正熙政権だったが、矛先は朴政権を支える日本政府や、日本のメディアにも向けられた。
ところで、なぜ、鄭敬謨さんが小田弁護士宅にいたのか。それは、当時、小田弁護士が韓国の政治犯救援運動に関わっていたからではないか、と私は思う。鄭敬謨さんも同様の運動に携わっていたから、2人は情報交換のために会っていたのかもしれない。
その後、鄭敬謨さんは自分の著書や、自ら発行する日本語雑誌『シアレヒム(粒の力)』を私宛に送ってきた。それらにより、私は、鄭敬謨さんの生い立ちや「日本亡命」の経緯、日本における言論活動の一端を知ることができた。
それによると、鄭敬謨さんはクリスチャンであった。日本の慶応大学医学部予科に留学し、日本敗戦・韓国解放直前に帰国する。その後、国費奨学生として米国の大学に留学中に朝鮮戦争がぼっ発、東京の連合国軍総司令部に召喚され、1951年から始まった板門店での休戦会談で通訳を務めた。
その後、韓国政府の技術顧問になり、蔚山(ウルサン)にできる石油コンビナートの基本構想を練る仕事に携わるが、1970年9月、日本に渡る。「日本亡命」であった。
動機は、その直前に発表された金芝河(キム・ジハ)の長編詩『五賊』を読んで、五賊(特権階級)の腐敗ぶりを知ったことだった。「何かものを書いて『五賊』どもの汚なさ、その中でうごめいている韓国民衆の悲しみを世界の人々に向かって訴えてみたい」と思ったからだった(鄭敬謨著『岐路に立つ韓国』、1980年、未来社刊)。
そうした思いからの言論活動だったから、朴正熙政権への批判はまことに痛烈だった。「朴正熙はプロのギャングスター的手段をもって、十八年間主権在民の原則を踏みにじってきた」とは、『岐路に立つ韓国』に出てくる、朴政権評の一節である。
さらに、板門店での休戦会談の通訳を務め、朝鮮半島が南北に分断される現場を直に目撃した経験を持つだけに、南北統一への願いは人一倍強かったようだ。だから、南北統統一を訴える文章には力がこもる。
そこで、鄭敬謨さんは、南北統一は「7・4南北共同声明」の3原則に基づいてなされなければならない、と強調する。「7・4南北共同声明」とは1972年7月4日に韓国、北朝鮮双方から発表された声明で、そこでうたわれている3原則とは、①外部勢力に依存したり干渉されることなく、自主的に解決する②武力行使に依拠することなく、平和的方法で実現する③単一民族として民族的大団結を図る、の3点であった。
加えて、南北統一に賭ける鄭敬謨さんの決意をまざまざと見せつけられた出来事があった。1989年3月に当時、韓国の在野勢力の指導者だった文益煥(ムン・イクファン)牧師とともに北朝鮮の平壌を訪問し、金日成(キム・イルソン)主席と会談、統一問題を話し合ったことだ。このことは、世界的な反響を呼んだ。
このニュースに接した時、私の脳裏に横浜市の小田成光弁護士宅で出会った鄭敬謨さんのエネルギッシュな姿が甦ってきて、統一運動家・鄭敬謨さんの熱意と行動力に改めて敬服したものだ。
もうかなり前から、鄭敬謨さんが日本のメディアに登場することはなかった。恐らく、高齢の身となって以前のように活動出来なくなったからではないか、と私は思う。その間、朝鮮半島情勢は急速に動き出し、南北首脳会談が2000年を皮切りにこれまで5回開かれ、2018年から始まった米朝首脳会談も3回を数える。
こうした朝鮮半島情勢の変化を、鄭敬謨さんはどんな思いで見つめていたのだろうか。恐らく、南北統一はまだ実現していないものの、自分が韓国から日本に「亡命」してきたころよりは朝鮮半島情勢は著しく好転しつつあると歓迎していたのではないか。
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