型を学ぶことの意味―学年制とか単位制とかを考える素材―

 もう10年以上前になりますが、友人たちに誘われてスキーに行ったことがあります。スキー発祥の地(新潟県上越市)に生まれた私は、4、5歳のころから滑っていましたから、誰よりも得意のはずです。でも意外なことに、ゲレンデのインストラクターは私にこう言いました。あなたは小学生よりも成績ががわるい、と。それで、なだいなだ氏の文章を思いだしました。ある島のトビウオのような小学生たちの水泳が通知表で2かそこいらだという内容の文です。

 今の学校教育では、とにかく型にはまらなければ優れていると評価されない。素潜りでアワビを採れても、クロールがへたなら褒めてもらえない。生活上の山スキーが得意でもシュテム・クリスチャニアのできない人はもうけっして伸びないと烙印をおされる。なんたる転倒でしょう。むかし、おふくろにでっかいにぎりめしを作ってもらい、それを背中にせおって一日中森や峠を越えて山スキーを楽しんでいた私は、今の学校教育では落ちこぼれです。クロールなんかじゃサザエは採れないと先生にたてつく島のトビウオ君もダメな生徒らしい。

 型とは、そんなものでしょうか。なるほど、柔道や剣道にはきまった型があります。あるいは日本舞踊や茶道、花道にも守破離という道があります。なにごともまず、型というものを身につけ守らなければいっさいが始まりません。学校での学習もしかりでしょう。けれども、最も大切なことは、その型を一人ひひとりが生活する上で自身に合うよう、創意工夫でもってアレンジしなおすことです。それができてこその型なんです。型とは、学ぶものではあれ、はまるものではありません。 でも今の教育行政は、あまりに型にはまりすぎです。自身がはまっているだけならいざしらず、子どもたちに型をおしつけすぎです。人はみな、自身の個性や生活環境にマッチした型をつくりだしていくべきであり、教育はその後押しに徹するべきです。
 
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