今年11月8日に行われるアメリカ大統領選挙は、共和党のドナルド・トランプ氏(69)と民主党のヒラリー・クリントン氏(68)の間で闘われることになった。今年2月から全米各州で行われた両党の予備選挙と党員集会から5月3日のインディアナ州の予備選挙を経て、トランプ氏とヒラリー氏が共和、民主両党の候補となることが事実上確定した。
全米はもとより全世界の注目を集めているのは、このご両人が極めて対照的な存在であることだ。ヒラリー氏が米国第32代大統領(1983~91)を勤めたビル・クリントン氏の夫人としてホワイトハウスのホステスを勤め、さらに2009年から2013年までオバマ政権の国務長官を務めた正統政治家であり、全米はおろか世界中でヒラリー・クリントンの名前を知らない人はいない著名人だ。
トランプ氏ときたら、アメリカでこそテレビのパーソナリティとして、またアメリカの不動産業界の大物としてある程度知られた名前だったが、外国では全く無名の存在だった。当初は「不法移民を封じるためにメキシコ国境に長城を築く」とか「イスラム教徒の入国を禁止する」といった“暴言”を吐くポピュリスト(大衆人気を狙う口舌家)と思われていたのに、予備選挙の3カ月を通じて、あれよあれよと言う間に当初16人もいたライバルを蹴落としてトップの座を確保したのである。
MIT(マサチューセッツ工科大学)のノーム・チョムスキー名誉教授は、専門の言語学はもとよりアメリカ社会の動向を鋭く批判する社会批評家として世界的に知られている。そのチョムスキー教授によるトランプ現象についての解説はこうだ。
人々は豊かになり、医療も進歩したのに、アメリカは他の国より平均余命が短い。そして「平均」余命は最近になって上昇しているが、その恩恵は平等に行き渡っていない。アメリカ人は金持ちが長生きし、貧しい者は長生きできない。低学歴の白人のうち、中年男性は特にこの傾向が強いと、最近の複数の調査結果が示している。他の年代や人種、民族の集団は以前より長生きできるようになったが、白人で低学歴、中年男性という特定の層は余命が短い。
ある調査結果によると、この層で死亡率が上昇しているのは、糖尿病や心臓疾患といった多くのアメリカ人を死に至らしめている疾患が理由ではない。むしろ自殺の急増、アルコール依存症による肝疾患、そしてヘロインの過剰摂取や麻薬の処方が原因だ。「戦争も大災害もなくなったことが、この層の死亡率を高めたのです。特定の世代に怒り、絶望、不満を残した政策の影響で、彼らは自らを傷つける行為に走っているのです。」これがトランプ氏の人気の背景だとチョムスキー教授は説明する。
教授はまた多くのアメリカ人が現在直面している貧困を、かつてアメリカ人が1930年代の大恐慌で味わった状況と比較した。「客観的に見て1930年代の貧困と困窮は今よりはるかにひどいものでした。だけど貧しい労働者や失業者には、今はない希望がありました。」教授は、大恐慌時代に見られた希望の背景として闘争的な労働組合の成長や主流から外れた政治組織の存在を挙げる。
しかし今日、貧困にあえいでいるアメリカ人にとって、雰囲気は全く違う。「彼らは絶望とあきらめ、怒りの縁に沈んでいます。その絶望や怒りは、彼らの命と世界を脅かす制度を解体しようとするのではなく、もっと多くの犠牲を払うような方向へと向いています。ヨーロッパでファシズムが興った時と状況は似ています。」
トランプ氏を押し上げる推進力になったのは、まさにプアホワイト(poor white)と呼ばれる「貧しい低学歴の白人層」である。彼らは第2次世界大戦後の数十年間、アメリカ社会の中枢をになう中流階級であった。ところが朝鮮戦争(1950~53)、ベトナム戦争(1965~73)、アフガン戦争(2001~)イラク戦争(2003~2011)と、米国が始めた戦争に天文学的な数字の戦費が投入され、数万人ものアメリカ人の生命が失われたにもかかわらず、中東からアジアにかけてアメリカの覇権は確立できていない。
ここに深刻な挫折感が発生する。米ソ冷戦が終わり、勝利者となったアメリカが仕掛けたグルジア(ジョージア)、ウクライナ、キルギスでのいわゆる「カラー革命」はウクライナを除いて不成功に終わる。1991年のソ連邦解体後、アメリカは官民が連携して旧ソ連邦を構成した各共和国にアメリカ流民主主義の導入を図ったのだが、結局は成功しなかった。さらに「エリツィンのロシア」と違って「プーチンのロシア」は再び強国化しつつある。
さて、トランプ氏の演説で決め台詞は「(俺に任せてくれれば)アメリカは再び強大な国になる」というものだ。アメリカは統計数字で見れば、軍事的にも経済的にも依然として「唯一の超大国」なのだが、プアホワイトからすればアメリカはもう「弱小国」に成り下がったような気分だ。そこへトランプ氏の決め台詞が届けば気分は晴れるし、“ワシントンの政治屋”でないこの人に国の運命を任せてみようという気になるだろう。
トランプ氏は父親から引き継いだ不動産業で成功した大金持ちで、政治資金は全部自分の金で賄えると豪語している。事実自家用ジェット機で全国を駆け回って選挙運動をしている姿が、テレビのニュースで紹介されている。一方のヒラリー氏が、ウォール街や軍産複合体などのロビー団体から集めた政治献金で選挙運動を賄っているのと対照的だ。ヒラリー氏が大統領になれば、これらのスポンサーからの要望に程度の差はあっても応じざるを得ない。これが11月まで続く選挙戦で、ヒラリー氏のウィークポイントになるだろう。
トランプ氏は、米軍が冷戦時代から引き続き世界各地に駐留しているための経費を問題にしている。冷戦終了後もNATO(北大西洋条約機構)の取り決めで米軍は欧州各国に駐留しているし、日本と韓国にも駐留を続けている。トランプ氏は、関係国が米軍の駐留費用をもっと多く分担するべきだと主張、分担増に応じない国からは米軍を撤退させるとまで言っている。
ソ連邦解体から四半世紀、冷戦時代の遺構とも言うべきNATOや日米安保条約、米韓安保条約が冷戦時代のまま続いていることに、トランプ氏は初めて疑問を突きつけた。欧州諸国、日本、韓国は米軍駐留経費をもっと分担すべきだし、分担増に応じないのであれば駐留米軍を撤退させるというのである。冷戦時代と変わらぬ膨大な防衛費を負担しているアメリカの税金負担者に、一石を投じる発言である。
いわば無手勝手流、自由自在の論戦を突きつけるトランプ氏に、既成権力を代弁する立場に立たされたヒラリー氏がどう対応するか、これから11月まで世界の耳目を集めることになる。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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