やや旧聞に属しますが、8月29日の当ブログ記事でも紹介しましたように、8月発売だった『現代短歌』9月号の特集<夏の課題図書 戦争と短歌>に寄稿しました。
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夏の課題図書 戦争と短歌
『沖縄文学全集第三巻・短歌』(国書刊行会 一九九六年六月)
「沖縄文学全集」全二〇巻のうちの一冊で、380人ほどの近・現代の沖縄歌人によるアンソロジーである。版元にも在庫はあり、古書店でも見つけることができるし、所蔵する公共図書館も少なくはない。作者たちは、沖縄出身の沖縄在住者が圧倒的に多い。昭和期以降に限っても、沖縄出身の井伊文子・春山行夫・桃原邑子、ゆかりの深い折口信夫・中野菊夫・丸木政臣・遠役らく子・武田弘之らの作品も見える。ただ、初出、出典歌集などの記載がないのが、残念ではあるが、平山良明による年表・歌集解題・歌壇概観があるのがありがたい。
五十音順に並んでいるので、どの頁から読み始めてもよい。『スバル』を舞台に活躍した山城正忠(1884~1949)「朱の瓦屋根の絲遊春の日にものみなよしわが住める那覇」や摩文仁朝信(1892~1912)「いたましき首里の廃都をかなしみぬ古石垣とから芋の花」などの作品にも出会うことができる。 作者自身が沖縄戦を体験し、あるいは身近な家族が犠牲となっている世代の人々は、つぎのようにも詠む。平成の天皇は、皇太子時代に五回、即位後五回、夫妻での沖縄訪問は一〇回に及ぶ。昭和天皇の「負の遺産」を払拭すべく、沖縄への思い入れは強いが、謝罪のない鎮魂のメッセージは届くはずもない。
・天皇のお言葉のみで沖縄の戦後終はらぬと勇気持て言ふ
(大城勲1939年~)
・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ
(神里義弘1926年~)
・天皇は安保廃棄基地撤去を宣言してから沖縄へ来られよ
(国吉真哲1900年~)
・警備陣万余到りておどろおどろ島に黑影あまたに揺らぐ
(新里スエ1934年~)
・洞穴に児を殺したる軍その銃の菊の紋章我は忘れじ(仲松庸全1927~)
つぎは、沖縄歌壇をけん引してきた人たちの作品である。1950年代「九年母簿論争」を経て、昨今、「類型的」とか「スローガン的」など沖縄県内外の評者からの指摘を受けてもいるが、「語り部」として次代につなげる、力強い作品を発信してほしい。
・流線の機首美しき三式戦のわが子の良太を切り裂きにけり
(桃原邑子1912~1999)
・わが戦車の待避壕いまものこるという西岳村に行きたかりけり
(松田守夫1928~)
・はらからの手に帰るなく摩文仁野のいづべに汝は朽ち果て行くか
(屋部公子1929~)
・爆音が臓腑を刺して突き抜けるかかる不安を日常とする
(平山良明1934~)
・病み臥る母が皺深き顔見ればなべて沖縄戦の記憶につながる
(平山良明1934~)
・国体旗並ぶ街道囚はれの如く島人に警備の続く
(玉城洋子1944年~)
沖縄歌壇の歴史で、忘れてはならないのは、ハンセン病療養所の歌人たちの作品である。沖縄県には、名護市屋我地島の愛楽園、宮古島の南静園がある。医学的に根拠のなかった「隔離・断種政策」が強行され、新薬プロミンが開発され、一九九六年「らい予防法」が廃止された後も、いわれのない隔離と差別が続き、二〇〇一年熊本地裁の隔離違憲判決により当時の小泉首相が国として謝罪した。この間の過酷な差別が続く療養所には、多くの短歌サークルが生まれ、作品が様々な形で出版されるようになった。このアンソロジーにも、多くが収録されているが、そのほんの一部を紹介しておこう。
・潮鳴りの遮光灯蒼き病棟の夜は新海の魚となり棲む
(新井節子1921~)
・ひと生(よ)病む遠離の果てをおもうとき夕雲よ炎のごとく奔れよ
(新井節子1921~)
・親のつけし名をかえ戸籍もこの島の療園に移してひそやかに住む
(松並一路1922~2014)
・住民に焼かれし病友の住家あとに千日草が小さく咲きおり
(松並一路1922~2014)
このアンソロジー出版後の最近の沖縄歌人の作品は、「特集・歌の力沖縄の声」(『短歌往来』二〇一三年八月)、「特集・戦後七十年、沖縄の歌―六月の譜」(『歌壇』二〇一五年六月)に多く収録され、最近では、『現代短歌』五月号から「沖縄の歌人たち」の連載が始まった。あわせて、まずは沖縄歌人の作品に触れてほしい。 (「現代短歌」2016年9月号所収)
8月29日の下記のブログ記事でも紹介いたしましたエッセイです。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/08/post-fdc8.html
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沖縄には、天皇の歌碑がいくつあるのだろう。今回、三つを訪ね、その背景を考えた。
那覇に着いた当日、夕方というのにともかく日差しが強い。瀬長亀次郎の資料館「不屈館」と「対馬丸記念館」に立ち寄ったあと、波の上宮へと向う。
ここには、昭和天皇と明治天皇の歌碑がある。参道の直ぐ左手に、「折口信夫(釈迢空)先生の歌碑(歌碑建設期成会)」(一九八三年建立)の表示があり、『遠やまひこ』(一九四八年)収録の一首だった。
・なはのえに はらめきすぐる ゆうたちは さびしき船を まねくぬらしぬ(釈迢空)
続いて、昭和天皇晩年の歌を上段に、下段に「おことば」が刻まれた碑があった。
・思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(昭和天皇)
「おことば」は、病気のため沖縄国体出席を断念した天皇の代わりに、一九八七年一〇月二四日、皇太子が代読した一文であった。
「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。・・・」
昭和天皇は、太平洋戦争末期、沖縄捨て石作戦により地上戦となることを放置し、多大な犠牲をもたらした、戦後にあってはいわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄の米軍基地が固定化した。そんな経緯を考えれば、沖縄に、歌碑など立てられるはずもないと思うのだが、神社だからこそだったのだろう。複雑な思いで、参道を進むと、目に入った銅像は、明治天皇だった。その背後には、弓なりの壁が回らされ、左右に縦長の色紙がはめられたような形で歌が二首刻されていた。
・たらちねの親には仕へて まめなるが 人の誠の始めなりけり
(明治天皇)
・わが国は 神の末なり神祭る 昔のてふり 忘るなよゆめ
(明治天皇)
二首とも、沖縄とは直接関係がない。もちろん明治初期に、天皇が進めた「琉球処分」に触れるような歌があったのか、選べなかったのか、私には、まだわからない。この二首は、明治百年(一九六八年)を期して計画され、一九七〇年に建立されていることがわかった。ちなみに、一八七二年、琉球藩設置にあたり「下賜」された短歌がつぎの二首であ.った。沖縄はこれ以降、過酷な決断を迫られ
ながらも抵抗するが、明治政府は武力をもって首里城の明渡しと廃藩置県を強行した。
・けふさらに久しき契むすひてよいはにかかる滝の白糸
(「水石契久」)(明治天皇)
・立ちならふ庭の梢のはつ紅葉いよいよそはん色をこそまて
(「初紅葉」)(明治天皇)
明治政府による皇民化教育が進められるなか、一八九〇年、琉球八社の中心的役割を果たす波の上宮が「官幣小社」となり、神道布教の拠点ともなっていた。この日、出会った参拝客は、ここでも、中国語を話す若い人たちが多く、もちろん、これらの歌碑には、関心を示さない。
明仁天皇の歌碑がある伊江島に渡ったのが、慰霊の日の二日前だった。那覇から高速バスで北上すること二時間弱、フェリーの発着所である本部(もとぶ)港で下車、伊江島へは、三〇分の船旅である。
島のタクシーの運転手さんに回りたいところを地図で示し、ルートはもちろんお任せした。ただ、どうしても訪ねたかったので、「城山(島の中心に突起する一七二メートル)の中腹に、天皇の琉歌の歌碑がありますよね」と念を押すと、「たしか、そんなものがあったかも知れない」と気のない返事だったが、たしかに、中腹の広場に、それはあった。
・広かゆる畑立ちゆる城山 肝乃志のはらぬ戦世乃事
(明仁皇太子)
明仁皇太子夫妻の最初の沖縄訪問は、一九七五年七月の海洋博開会式出席のためであった。その折、ひめゆりの塔における火炎瓶事件が発生している。伊江島へは、翌年一月一七日、海洋博閉会式に出席した折に立ち寄っている。歌碑は、「皇太子殿下・皇太子妃殿下御来村記念碑」と並んだ小ぶりのものだった。その年の四月二九日に建立とある。
伊江島といえば、一九四五年三月二三日から米軍の空襲が始まり、四月一六日に上陸を開始、日本軍は、住民も戦闘に巻き込み、四月二〇日には壊滅状態となった。島の住民の半分にあたる一五〇〇人、兵士が二〇〇〇人、約三五〇〇人が犠牲になった島である。住人は、ただちに慶良間島や大浦崎収容所に強制移住させられた。島に戻ってきた矢先、一九五五年、米軍が基地建設のために「銃剣とブルドーザー」による土地の強制収用が始まったという苛烈な歴史を持つ。阿波根昌鴻らを中心とする伊江島の土地を守る運動は、まさに血のにじむ闘争であった。現在も、米軍基地は島の三五%以上を占め、おもに、オスプレイの離着陸、パラシュート降下訓練などが日常的に行われている。
皇太子夫妻の伊江島訪問当時、過剰警備についての地元紙の報道はあるが、来村記念碑や歌碑の報道は見当たらない。そして、『伊江村史』や役場が発行する資料にも、詳しく記載されていない(「レファレンス事例詳細」沖縄県立図書館提供、二〇一一年一一月)。今回、島で入手した観光案内パンフなどにも、一切言及がないし、地元に伝わる民謡の「歌碑」巡りでも、対象とはなっていない。皇太子夫妻の来村について、当時を知っている人々は、苦々しく、複雑な思いがあったにちがいなく、いまの若い人たちは、もはや関心がないのかもしれない。
本島に戻るフェリーからは、恩納岳に連なる山並みが美しかった。万座毛からその恩納岳を望んだ天皇の歌の碑があると聞いた。
・万座毛に 昔をしのび 巡り行けば 彼方恩納岳 さやに立ちたり(明仁天皇)
二〇一二年一一月全国豊かな海づくり大会の折の短歌である。前日に訪ねた「不屈館」に展示されていた、瀬長亀次郎夫人のフミの短歌を思い出していた。
・歌の山 恩納岳かなし 米軍の 砲弾の音 小鳥も住めず(瀬長フミ)
(新日本歌人2016年9月号所収)
関連の紀行記録は次の記事にもありますので、ご覧ください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4264.html(7月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-a2b2.html(7月29日)
初出:「内野光子のブログ」2016.10.05より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/post-72f9.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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