「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。
以下は、私の担当部分(憲法20条(信教の自由)違反)の原審での主張の一部の要約である。あらためて読み直して、紹介するに値するものと思う。原判決は、基本的にこれを反駁する説得力をもたない。
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☆公務員にも教員にも信教の自由が保障されなければならない
原告らは、訴状請求原因において、違憲判断手法における客観的アプローチと主観的アプローチを意識的に区分したうえ、主観的アプローチの典型として、原告らの信教の自由侵害(憲法20条1項・2項違反)を主張した。
その主張の根底にあるものは、個人の尊厳が尊重されるべきことであり、そのための個人の精神生活における自由が保障されなければならないとするものである。国民のすべてに、それぞれの生き方を自分で選び取る自由が保障され、選び取った生き方に従って生きることを最大限可能とすることの保障の必要でもある。そのため、公権力は、国民の精神生活の分野に立ち入り、これを侵害してはならない。
そのような、保障されるべき精神生活の典型分野として信仰がある。人格の中核をなすものとしての信仰の選択が保障されなければならず、いかなる形においても、公権力がこれを侵害することは許されない。
社会には多様な宗教が存在し、多くの人が信仰を自己の人格の基礎ないし中核として精神生活を送っている。多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべきことが、社会の正常なありかたであり、憲法上の理念でもある。信仰を持つものが、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることがきわめて自然な社会のありかたであり、公務員にも、教員にも、当然に多様な信仰を持つ者が存在することが想定されている。公権力は、これを受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をすべきであり、これを侵害することは許されない。
ところが、このような原告の主張に対する被告(都教委)の反論に接して、公権力がかくも憲法理念に無理解であるばかりか、挑戦的ですらあることに一驚を禁じ得ない。
被告の主張は、公務員も国民の一員として信教の自由を持つことに理解なく、公務員に対しても可及的に信教の自由を保障しようという観点はない。信教の自由に抵触する虞のある職務命令を控えなければならないとする配慮は皆無である。むしろ、国家主義を受容し得ない信仰を持つ者は公務員である資格がない、教員として不適格である、と言っているに等しい。
信仰を持つ者が信仰にしたがいつつ公務員や教員として社会生活を送ることができるのか、それとも自分の信仰を殺して公権力に迎合せざるを得ないのか。400年前に踏み絵の前に立たされたキリスト教徒と同じ深刻な問題が、信仰を持つ教員に突きつけられている。
☆原告らの信仰とその侵害
原告らの内、すくなとも2名は、自分が信仰を持つ者であり、信仰ゆえに起立・斉唱をすることができないことを表明している。
ことの性質上、以下のとおり、事情はきわめて個別性が高い。
その内の一人は、自分にとって、信仰者(クリスチャン)であることの信念は、あるべき教員としての理念と一致し、教育活動のあり方の指針をなすものと認識している。信仰者としての信念とは、「隣人愛」「少数者・弱者への愛」「神の愛」ということである。その信念が、教育者として、生徒一人ひとりを大切にすること、とりわけ少数者や弱者を尊重する姿勢で生徒と接し、人格的な信頼関係を形成すべきこと、愛情溢れる教育活動をなすべきことの基底をなしている、との自覚である。
同原告にとっては、現在の教育行政は、到底クリスチャンとしても教員としても受け容れがたい。「日の丸・君が代」強制は、その顕著な具体例である。同原告にとっては、「日の丸」に向かって起立させ、一律に「君が代」を歌わせる行為は、国家神道と「神なる天皇」への賛美を強制するものであり、服従を強いるものでもある。それは、クリスチャンにとって禁忌とされている偶像崇拝に通じる行為として従うことができない。しかも、「神の子イエス・キリストが身を呈して私達の罪を償って下さったことを思えば、例え処分されようとも、いかなる不利益を受けようとも、最高裁がどのように判断しようとも、自分の信仰に照らして、私は従えない、従ってはならない」という強固な信念なのである。
もうひとりの原告は、カトリック信者として、偶像崇拝を避けるために、神道の象徴である「日の丸」の前で「君が代」とともに起立することはできない、との信念を有している。この信念は、かつての戦争で、「日の丸」「君が代」が多くの人を死に至らしめた役割を演じたことからの、平和を希求する思いと一体をなすものとの認識である。
また、同原告は、信仰を捨てなかったために火あぶりの刑に処せられた聖人の名を洗礼名として持っている。にもかかわらず、たった一度だけ、卒業式前の予行の際に、精神の不調から起立してしまった経験がある。このとき、激しい自責の念に駆られ、通院を余儀なくされるほど精神的に傷ついている。
以上のとおり、真摯な信仰者にとっては、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、深刻な信仰への侵害であり、耐えがたい精神的苦痛をもたらすものである。憲法は公権力に対して、このような信仰に対する侵害を禁止し、信仰を持つ者の権利を保障している。
☆ 憲法20条2項違反
「憲法は、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。』(20条1項前段)とし、また『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。』(同条2項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設けている。
注目すべきは、同条2項が、判例上明確に狭義の信教の自由を保障する規定に、つまりは政教分離という制度的保障とは区別された、人権保障規定そのものとされていることである。
この規定は、同条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」の一部ではあるが、戦前に神社参拝や宮城遙拝などの宗教上の行為や、国家神道上の諸儀式に国民が強制動員されたことの苦い経験から、信教の自由侵害の典型事例として特別の規定を置いたものと解されている。
信仰をもつ原告らは,自己の信仰にしたがって「日の丸・君が代」を位置づけ,自己の信仰に背馳し抵触するものとして「日の丸・君が代」を受け容れがたいと主張しているのであって,それで20条2項の該当要件は充足されている。したがって,信仰をもつ原告に関する限りにおいて,被告が「日の丸・君が代」は一般的,客観的に宗教的意味合いがない,と反論することはまったく無意味である。問題は,「日の丸・君が代」が一般的客観的に宗教的意味合いを持つか否かではない。飽くまで,強制される信仰者にとって,自らの信仰ゆえに強制を受容しがたいと言えるか否かなのである。
☆神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決
この理は,基本的に剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制された『剣道の授業受講』は,一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為ではない。しかし,当該の生徒の信仰に抵触する行為として,その強制の違法を最高裁は認めた。本件でも同様の関係があり,しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は,剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。
内心における信教の自由は,特定の宗教を信仰する自由,あるいは信仰をもたない自由として,絶対的に保障される。しかし,権力が国民の内心を直接に改変することはそもそも不可能であることから,純粋に内心に押し込められた信教の自由は,人権保障としての意味をもたない。憲法が実定的な人権保障規定として意味あるものであるからには,信仰の保障範囲を厳格に内心の自由として押し込めてはならない。
☆「日の丸・君が代」強制と「踏み絵」
江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。
事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。
☆ 信教の自由の限界
もっとも、信教の自由と言えども絶対不可侵ではない。必要不可欠な制約には服さざるを得ない。問題は、いったい何をもって必要不可欠な制約というかである。
教員であることが信仰上の信念と抵触することはあり得ないことではない。もっとも考え得るのは、自己の信ずる信仰上の教説が科学的検証に堪えるものではない場合である。飽くまで、次世代への真理の伝達をもって公教育の本質と考えるべきであって、教員の主たる任務である教科指導において教授すべきは検証された真理でなければならず、信仰上の教説であってはならない。真理性の検証を欠いた主観的な価値的教説の教育は許容されない。
ことは公教育の本質把握如何に関わるが、憲法的には「子どもの教育を受ける権利」を基礎として立論されることになる。
学校とは、その基本において、人類が真理として確認した知の体系を伝える場である。子どもには、そのような意味での知の体系、すなわち真理を学ぶ権利が保障されており、教員の基本的責務は、この子どもの知的要求を充足させることにある。
したがって、いかなる信仰信念を持とうとも、真理とされている知識、情報、思想を子どもに教授する義務を全うしなければならず、このことは、必要不可欠なこととして、教員の信教の自由を制約する。
☆ 「日の丸・君が代」強制は許容されない
このことは、真理教育を中核とする教科指導とは別異の学校生活の場では、自ずから別の基準が必要とされることを意味する。教科指導と離れれば真理性教授の問題はなく、教科以外の学校生活の場では、教員の信教の自由は最大限保障されなければならない。
卒業式等の国旗国歌強制、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、公教育における不可欠の要素ではない。当該各原告らの信仰を侵害することを合理化するいささかの根拠ともなり得ず、公権力による強制は憲法上許容される余地がない。
「多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重され、信仰を持つ者も持たない者も、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることが正常な社会のありかたであり、憲法上の理念でもある」ことを都教委は受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をしなければならない。
(2017年12月13日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.12.13より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9589
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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