大国の論理が生み出した核戦争の危機 ウクライナ侵攻の長期化を前に「キューバ危機」を振り返る

 ウクライナ戦争の長期化とともに核戦争の勃発が懸念されている。今年は「キューバ危機」60周年に当たる。「危機」はどのようにして生まれ、終結したのか。その後には何が残されたのか。ウクライナ問題を念頭にキューバ危機について振り返ってみたい。

 キューバ危機で思い出されるのは、ハリウッド映画「13 days」であろうか。ローバート・ケネディ司法長官の回想録を映画化したものであり、ホワイト・ハウスにおけるEXCOM(国家安全保障会議執行委員会)の議論を中心に当時の緊迫した情勢を知ることができる。
 その後、当事者でありながら米ソ交渉の「蚊帳の外」におかれていたキューバでも、フィデル・カストロ首相の証言やミサイル部隊責任者の著作など様々な資料が出され、これまで知られることのなかった多くの事実が明らかになった。
 そこから見えてくるのは、ケネディ大統領も、またフルシチョフ首相も、核戦争の回避で一致していたにもかかわらず、事態はそのコントロールを離れ、一触即発の状態に至ったこと、「危機」は大国の論理のもとで醸成され、小国の意志は無視され、キューバにとっては「何も変わらず」、今もなお、厳しい状況が続いていることである。

もしも公開してミサイルを設置していたならば? 
 フルシチョフがキューバに核ミサイルの導入を決めたのは、米軍のキューバ侵攻が迫っていたためであった。1962年4月のことである。「1万キロも離れたモスクワからキューバを守ることはできない。侵攻は対ソ戦を意味することを知らしめ、思いとどませる。米国もソ連に向けてトルコに密かにミサイルを設置したではないか」というのである。ミコヤン副首相らは、カストロは受け入れないだろうと進言したが、却下された。
 その2年前の60年4月には米国が組織した反革命軍がキューバに侵攻している。上陸地点の名を取り、「プラヤ・ヒロン事件」あるいは「ピッグズ湾事件」と呼ばれているが、革命直後でもあり、キューバではまだ軍隊も形成されておらず、航空機も前日までの米軍の空爆のために、たまたま空を飛んでいて難を逃れた8機しかなかった。最初に反革命軍を迎え撃ったのは猟銃などを手にした教員や労働者などの民兵であり、ハバナから駆けつけたカストロ首相がなけなしの戦車の屋根に飛び乗って指揮をとり、3日足らずで撃退した。一人でも山中に逃れ、臨時政府を宣言していれば、「民主政権支持」を口実に米軍が侵攻していた。薄氷の勝利であった。
 勝利を確信していた米国にとっては大変なショックであった。カストロ体制を倒すためには米軍の直接侵攻以外にない。こうして「マングース作戦」が決定され、ケネディも61年11月に承認した。
 62年5月24日、ソ連の防衛評議会でミサイル配備計画「アナディリ作戦」が承認され、29日にはカストロの説得のためにハバナに使節団が到着した。いかなるミサイルを設置するのか、カストロは繰り返し尋ねたが、答えはなく、「ソ連軍の存在やミサイルの導入はキューバに対するラテンアメリカ諸国のイメージを損なう。侵攻には最後の一人になるまで戦う」と反対した。しかし、政府指導部で検討するとした。翌日、「米軍の侵攻を阻止するためであるならば、反対はできない。ミサイル設置は社会主義圏の防衛強化にもつながる。必要な武器をすべて受け入れる」と回答した。当時、米国の封じ込め政策のために国際的孤立が深まっており、ソ連に依存して社会建設を進める以外になかった。米軍の直接侵攻を前にしてはひとたまりもなく「革命」は消滅する。苦渋の選択であった。
 だが、このときカストロは一つの条件を提示していた。軍事協定を締結し、それを公開したうえでミサイルを導入するというのである。6月3日、ラウル・カストロが協定案を携え、モスクワに到着した。だが、フルシチョフは「設置が終了してから(11月初旬)公表する。米国は既成事実として基地の存在を認めざるを得なくなる」として譲らなかった。キューバはまた、設置後にはミサイルをキューバ軍の管轄下におくことを求めたが、同じく拒否された。協定は署名されず、ラウルは16日に帰国した。
 実際問題として秘密裡の導入は不可能であった。ソ連の計画ではミサイルは80基、そのために必要な兵員はおよそ5万人。兵員の移送だけでも80隻の船舶が185往復する必要がある。20メートルを超えるミサイルを載せたトラックが音をたてて通過すれば住民も気づく。米国もキューバ人亡命者から聞き取りを行っていた。キューバに熱帯雨林はなく、大王ヤシの木だけではミサイルを覆い隠すことはできない。U-2機が毎日のように飛来し撮影を続けているのに、ソ連軍は気にすることなく作業を続けていた。
 アナディリ作戦は7月7日に始まり、26日には第1便がキューバの港に到着した。CIAはその半月後の8月10日には基地の建設を察知している。もはや秘密裡の設置は不可能であった。カストロは8月27 日、ゲバラをモスクワに派遣し、再度、公開を要請したが、フルシチョフの姿勢は変わらなかった。9月9日には中距離弾道ミサイルR-12が、10月4日には核弾頭も到着した。その後、R-14も陸揚げされ、各地に配置された。
 ミサイル設置計画の杜撰さもさることながら、米軍の侵攻が目前に迫っていたにもかかわらず、ソ連軍はそれを迎え撃つためのプランも作成していなかった。一方、核ミサイルを導入したからといって世界の核バランスが変わらないことは、米国も、キューバも、またソ連も認識していた。なぜフルシチョフはミサイル基地を設置したのであろう。
 フルシチョフの回想録『封印されていた証言』にはカストロやキューバについて多くの事実誤認がみられるが、最も重要なのは、米国にとってキューバとは何であり、また、キューバ革命とはいかなるものであったかについて、認識が欠如していたことであろう。

「危機」のさなかにも軍事侵攻計画は着々と進んでいた
 モンロー宣言以来、米国にとってリオグランデから南の地域はその支配圏であり、とくにキューバは、米西戦争以来の歴史が良く示しているように、「自国の領土」ないしは「属国」であった。ケネディも、政権発足と同時にキューバへの全面的経済封鎖を実施し、反革命軍の侵攻にゴーサインを出している。キューバのミサイル設置についてテレビで国民に発表したときにも「共産主義の脅威」を訴えていたが、米国にとっては「対米自立を目指すカストロ政権の存在そのもの」を認めることができなかったのである。
 10月16日にCIAからミサイル基地建設の証拠写真を示されたケネディは直ちにEXCOMを設置し、会議を開いた。国防省、軍部、CIAのトップなど圧倒的多数のメンバーが基地への空爆とキューバ侵攻を主張し、21日を空爆の日と定めた。これに対しケネディは慎重な姿勢を示した。だが、空爆が不可欠であることは認めていたのである。しかし、それは核戦争につながる。問題はいかにして核戦争を起こすことなく基地の空爆と軍事侵攻を行い、カストロ政権を倒すかにあった。
 そこで打ち出されたのが海上封鎖案である。封鎖は24日から始まるが、この日、ソ連船が刻々とキューバに近づいていた。世界の人々の眼はカリブ海に釘づけになった。しかし、船は突然、封鎖線の直前でUターンした。フルシチョフがあらかじめ指示していたのである。ケネディも25日のEXCOM会議でソ連船停止の中止を決定している。
 見逃してならないのは、「危機の13日」間にもマングース作戦が着々と進められていたことである。「危機」が最高潮に達した10月27日にはカリブ海には軍艦200隻、迎撃機183機が展開され、B-52戦略爆撃機66機がキューバ上空を飛び交っていた。

不測の事態が核戦争をもたらす
 25日には、ケネディは海上封鎖を中止する一方で、国務省に対して侵攻後にキューバに新政府を樹立するための準備を開始するよう指示し、偵察飛行をそれまでの1日2回から2時間ごと1回に増加することを決定している。すでに十分な情報を入手していたにもかかわらず、なぜ、偵察飛行を強化したのであろう。
 U-2機は、領空侵犯などものともせず、何度も何度も飛来しては1時間以上にわたり低空飛行を続け、あざ笑うようにフロリダに戻っていく。26日、カストロは翌日から偵察機を撃墜すると発表した。
 27日午前8時過ぎ、アンダーソン少佐の操縦するU-2機がキューバ西部から東部のオリエンテ州へと飛来し、1時間半にわたり低空飛行を続け、グアンタナモ基地上空から北へと向かった。北部沿岸のバネスに到達したところで対空ミサイルが火を噴き、撃墜された。フルシチョフはソ連軍に対し偵察機の爆撃を禁止していた。キューバのミサイルも最大10キロまでしか届かない。カストロは、責任は爆撃を許可した自分にあると語っているが、当時は中部のサンタ・クララにいた。誰が発射したのか。のちにソ連の3人の軍人が名乗り出ているが、真相は未だに不明である。
 EXCOMでは偵察機が爆撃された場合にはミサイル基地を空爆することが決定されていた。27日には核兵器を搭載した米国の軍艦も南進していた。在キューバ・ソ連部隊も核弾頭の準備を終え、戦闘態勢に入っていた。核戦争勃発は時間の問題であった。

頭越しの「危機終結」
 28日朝9時、ケネディのもとにモスクワ放送の速報が届いた。フルシチョフがラジオを通じて、トルコのミサイル撤去とキューバ不侵攻を条件に、キューバの核ミサイル引き揚げる用意があると伝えていたのである。それまでトルコのミサイル撤去については逡巡していたケネディも「国際社会の反応を考慮」し、受け入れた。「キューバ危機」は終焉し、11月にはキューバのミサイルも撤去された。
 フルシチョフからの書簡で合意を知ったカストロは強い怒りを表明しながらも、紛争解決のための5項目を発表し、ケネディとの話し合いのために米国へ向かうミコヤン副首相に託した。①経済封鎖の解除、②体制転覆活動の停止、③米国とプエルトリコからの海賊行為の停止、④領空・領海侵犯の停止、⑤グアンタナモ基地と米国により占領された地域の返還である。いずれも基本的な国家主権にかかわる問題であるが、今日においても未だに実現していない。米軍侵攻の可能性も残っており、経済封鎖も年々強化されている。
 ミサイル危機のあとケネディは密かにキューバとの関係改善に乗り出している。カストロがいわゆる共産主義者ではないことに気づいたためとも言われているが、表向きには「カストロを懐柔するため」としていた。しかし、密使がカストロと話し合いをしていたそのさなかに、ダラスでのケネディ暗殺の報が届いた。
 その後、2015年末にはオバマ大統領が関係改善に乗り出している。キューバ国内でも興奮が広がったが、カストロは「オバマ氏は誠実な人だが、米国の限界というものがある」と冷静さを求めていた。予想通り、国交が回復してからも、米国からの経済進出は大幅に緩和されたものの、キューバからの輸出は禁止されたままであった。オバマ政権の政策はトランプ大統領の手で反故にされ、経済封鎖はジェノサイドと評されるほどに激化した。
 国連総会では1992年以来、毎年、「キューバ制裁解除決議」が圧倒的多数の支持で可決され、今年も反対票を投じたのは米国とイスラエルの二か国に限られた。しかし、バイデン政権下でも何も変わらず、キューバでは「トランプ主義者バイデン」と評されている。
 「危機」の終結後、米国の封じ込め政策が強化され、ソ連に対するキューバの経済的依存は高まっていった。1972年には社会主義圏の経済協力機構COMECONに加盟するが、キューバは「亜熱帯農産物の生産輸出国」と位置づけられ、食料を初め生活物資の多くを輸入に依存した。こうして1991年にソ連が解体すると、物資も、経済発展資金も欠乏し、未曾有の経済危機に見舞われた。

 「キューバ危機」は大国の論理のもとで生み出され、小国の意思は顧みられることなく、幕が降ろされた。その結果、キューバでは今もなお、厳しい現実が続いている。
 大国の論理はウクライナ戦争の行方にどのように影響していくのであろう。

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1239:221119〕