大黒弘慈『マルクスと贋金づくりたち』について

中野@貴州です。貴州に戻りました。

札幌に帰省中、紀伊国屋書店で大黒弘慈『マルクスと贋金づくりたち』(岩波書店 2016年)を購入しました。その中に「価値形態論における垂直性と他律性」という論文が収められています。その感想などを・・・。

著者の主張は「価値に関する『体化労働説』と『社会関係説』との両極端を乗り越えよ」というものでしょう。スタートポイントは廣松渉『資本論の哲学』と同じ位置にあると言えますね。

でも、「労働実体というのも関係主義的観念である」といくら繰り返しても、廣松の論理には矛盾が残ったままだったと思います(私はむしろ「体化労働説」に先祖返りをしてしまったという気がしますが)。著者もこの点は認めているようです。

蛇足ですが、去年11月の広州中山大学の廣松シンポの際、南京大学の若手研究者が「『資本論の哲学』の価値概念は矛盾している」とはっきり指摘していました。中国の研究者が『資本論の哲学』(もちろん中国語訳ですが)を読んでその問題点を指摘したのですよ。驚きですね。

さて、著者は「社会関係説」も退けているようです。確かにこの論理を突き詰めれば、「価値なるものは貨幣の量(価格)で表されたものにすぎない」ということになり、ほとんど主流派経済学の「価値概念不要論」と同様なものになってしまいます。そうした帰結は、著者も望んでいないようですね。

それで、著者は、「労働実体」でもなく「貨幣の量」でもない「第三の概念」が必要だと主張しています。私はこれに全面的に賛同します。換言すれば、「価格」でもなく「投下労働量」でもない「価値そのもの」の概念が必要だというわけです。

では、著者の言う「第三の概念」とは何でしょうか。

実はこれがわからない。著者は「空間の広がり」とか「場としての価値」とかと述べています。サッパリワカラン!

でも、実はその「第三の概念」をすでにはっきり定義した方がいるのです。山口重克氏です。山口氏は「商品に内在する他の商品を引き付ける交換力(厳密に言えば『商品に内在するかのように見える』)とはっきり定義しているのです。私はこの定義に賛同しています。

著者は、まさかこの山口氏の定義を知らないわけではないでしょう。著者はこの山口説を徹底的に検討すべきだったのではないでしょうか。

問題提起の鋭さとその回答との落差がありすぎると感じますね。