誰しも「一度会ったら忘れられない人」がいるはずだ。私にも何人かいるが、その1人の訃報に接した。12月14日に98歳で亡くなった天台宗(総本山・比叡山延暦寺)座主の半田孝淳(はんだ・こうじゅん)さんである。私が半田さんの謦咳に接したのは3回に過ぎないが、その度にその人柄とバイタリティーに富んだ活動に魅せられてしまい、私が最も尊敬する人の1人となっていた。「平和運動に熱心だった高僧」。それが、私の脳裏に焼きついている半田像である。
私が半田さんに最初にお目にかかったのは、1997年、インドでであった。
この年の3月、「タゴール・寛方記念石碑除幕式参加ツアー」と題するインド訪問旅行があった。タゴールとは、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した、インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(1861年~1941年)、寛方とは、法隆寺金堂壁画の模写に参加した日本画家の荒井寛方(あらい・かんぽう。1878年~1945年、栃木県さくら市出身)である。
親日家だったタゴールは5回にわたって来日し、滞在中、寛方と知り合い、親交を深めた。その縁で、寛方はタゴールに招かれ、1916年から1年半、タゴールの生地であるカルカッタやシャンティニケタンに滞在し、日本画を教えたり、世界的に知られたアジャンターの壁画の模写に携わった。
寛方の次男で記録映画作家だった荒井英郎(故人)の妻、なみ子さん(同)は、タゴールと寛方の友情と2人が果たした日印文化交流史上の功績を広く紹介し、永く伝えるための記念碑を自費で建立することを思い立った。シャンティニケタンにあるタゴール国際大学と交渉し、同大学構内にある日本学院の庭の一角にタゴール・寛方記念石碑が完成、その除幕式が1997年3月3日におこなわれた。タゴールと寛方の出会いから81年がたっていた。
「タゴール・寛方記念石碑除幕式参加ツアー」はそのための旅行団だったのである。総勢27人。団長は平山郁夫・東京芸術大学学長(故人)。私もこのツアーに参加したが、ツアーの中に半田孝淳さんがいた。当時、比叡山別格本山・常楽寺(長野県上田市別所温泉)の住職であった。
半田さんはなぜこのツアーに加わったのか。それは、父で常楽寺の前住職だった半田孝海が寛方と親交があったからだ。2人は俳句を通じて知り合い、交流を深めた。寛方はたびたび常楽寺を訪れるうちに、孝海から寺の縁起を聞き、それを題材に「紅葉狩絵巻」16枚を描き上げる。1937年のことだ。院展に出品され、その後、常楽寺に奉納された。そんな因縁から、半田さんはツアーに加わったのだった。
この時、半田さんは79歳。3月といえどもシャンティニケタンは連日猛暑であったが、僧衣をまとった半田さんは除幕式、タゴール国際大学関係者との交流、現地に滞在中の日本人との懇談など盛りだくさんのスケジュールをこなしていった。それを傍から見ていて、なんて精力的な僧侶なんだろうと敬服したものだ。そこには、何ごとにも正面から真摯に向き合うという揺るぎない姿勢があった。
このツアーの後、ツアー参加者を中心に、寛方とタゴールの業績を顕彰、普及するための「寛方・タゴール会」が結成された。半田さんは副会長に就任、2003年には会長になった。
それから7年後の2004年、私は再び半田さんにお目にかかる機会を得る。半田さんが、父孝海と寛方の友情を讃える記念碑を常楽寺境内に建立したからである。碑には「仏教を通じ平和を希う」の文字とともに「孝海と仏画で知られる寛方は不殺生を説いた仏陀の教えに従い、共に心から平和な世界を望んでいました。米国で同時多発テロが起き、それをきっかけに米国がイラクで戦争を始め、世界平和が揺らいでいます。今こそ、平和を希求した二人の生涯に改めて注目したい」との建立の趣旨が刻まれていた。
11月7日、除幕式があり、私もそれに参列した。
半田さんとの3回目の出会いは2005年6月26日、再び常楽寺で、であった。荒井なみ子さんが創設した朗読劇団「八月座」が、この日、常楽寺で戦没画学生鎮魂供養のための公演を催したからだった。演目は『無言館の詩』。常楽寺と同じく上田市内にある、戦没画学生を慰霊する美術館の館主、窪島誠一郎さんの著作を原作とする朗読劇だった。
半田さんは、この公演のために寺の本堂を提供しただけでなく、公演に先立って戦没画学生のために読経し、その最後を広島の被爆詩人・峠三吉の詩「ちちをかえせ ははをかえせ」で締めた。
公演に先だって、半田さんは八月座にメッセージを送っている。そこには「二度と戦争は起こしちゃいかん、人殺しはいかん」とあった。
公演の合間の休憩時間に、本堂の一角で友人と休憩していたら、通りがかった半田さんに「よかったらどうぞ」と、本堂わきの応接室へ招かれた。友人と2人でそこに入り、しばし、半田さんと親しく歓談させていただいた。
その時の印象を一言でいえば、豪放磊落、快活にして陽気、大胆にして細心、といった表現がぴったりの僧だった。絶えず温和な笑みをたたえていた。私はその話に引き込まれ、いっそう尊敬の念を高めた。半田さんはその時、87歳。
この間、半田さんは1999年に天台宗のいわばナンバー2とも言える「探題」に就任した。「比叡山別格本山」とされる寺の住職なんだから「偉いお坊さんには違いない」とは思ってはいたが、天台宗のナンバー2になられたと聞いて驚いた。
2007年2月には、天台宗トップの第256世座主に就任する。延暦寺一山ではない地方の寺の住職としては37年ぶりの天台座主だった。2012年4月から2年、全日本仏教会会長も務めた。
すでに述べたことでも分かるように、半田さんは早くから平和運動に熱心に取り組んだ。それは、国内にとどまらず、国際的な広がりをもつものだった。ローマ法王の呼びかけで1986年から始まった「世界宗教者平和の祈りの集い」には天台宗を代表してたびたび参加。2005年にフランスで開かれた「世界宗教者平和の祈りの集い」では核兵器廃絶を訴えた。座主に就任した2007年には、世界18カ国の宗教代表を延暦寺などに招いて「世界宗教者平和の祈りの集い」を開いた。
生涯を通じて平和運動を推進した宗教家は日本では稀である。半田さんはなぜ、平和運動に熱心だったのか。一つには、大正大学卒業後、軍隊を経験したからではないか、それに、父孝海から影響を受けたからではないかと思われる。孝海は常楽寺住職にほか、長野市の善光寺の副住職、名誉貫主を務めるかたわら、日本原水爆禁止協議会代表理事、原水爆禁止世界大会議長、日中友好協会副会長などを務めた人だった。社会運動家・市川房枝、女性解放運動家・平塚らいてう、政治家・山本宣治、戦後参院議員を務めた高倉テルらとも親交があった。
半田さんは昨年3月、聞き書きによる自伝『和顔愛語を生きる』を信濃毎日新聞社から出版した。和顔愛語(わげんあいご)とは大無量寿経にある言葉で、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することだという。
半田さんは文字通り、和顔愛語に徹した人だったのだ。
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