天安門事件は民主運動だったか

     ーー八ヶ岳山麓から(527)ーー

 今年もまた6月4日の天安門事件記念日がやってきた。
 1989年4月中旬から北京をはじめ上海、広州、西安、南京など大都市の学生と市民は、官僚の汚職と物価の値上がりに対して「民主化」と「腐敗反対」を掲げた激しいデモを繰り返していた。6月3日深夜から4日にわたって、中国共産党中央は北京天安門広場に座り込んでいた学生を中心とする集団に対して戦車・機関銃・自動小銃を装備した軍を向け、この「反政府運動」を鎮圧した。死者の数は香港情報では8000人余り、中国共産党中央の公式発表では300人であった。
 1988年3月から89年7月まで、わたしは北京の隣り天津の(中高一貫)高校に派遣され日本事情と日本語を教えていた。ここで大学生・中高生・市民がデモに参加する姿を見た。以下、過去に述べたことと重複するが、あの日々の思い出を書きたい。
 
 当時、事実上の国家指導者であった鄧小平の経済政策の誤りによって猛烈なインフレが始まり、すさまじい物価値上がりが人々の生活を直撃した。にもかかわらず、中高級官僚は国家の財産を本人や親戚知人に安く払い下げ、これを市場で高く売り不当な利益を得ていた。世間では、党最高指導者層で清潔なのは元中共総書記胡耀邦と故中国総理周恩来夫人の鄧穎超だけだといわれていた。
 胡耀邦は中共総書記だったとき、文化大革命時代に失脚した人々の名誉回復に尽力し政府批判にも寛大だったので広範な人々の支持を得ていたが、これを革命第一世代に攻撃されて失脚した。その後趙紫陽が党総書記になったが、国政の実権は鄧小平をはじめとする「八大長老」が握っていた。
 1989年4月15日胡耀邦が死去すると、北京の学生は彼を追悼するとともに彼の再評価をもとめて街頭でのデモを始めた。デモには激しい物価高に不満を持つ市民が加わり、速やかに全国の大都市の学生と労働者に拡大した。天津の学生は自転車で何時間もかけて北京に出かけた。

 学生市民の運動は自然発生的なものだった。中国の大学には学生自治会がなかったし、もちろん全国を網羅した自主的な学生組織はなかった。このため北京では学生デモの中核は形成されたものの、デモを統率する強力な指導部と明確な目標が形成されなかった。
 学生は「民主化」と「打倒官倒爺(ダーダオ・グアンタオイェ)」を叫んだ。「倒爺」は転売業者のことだから「官倒爺」は「役人ブローカー」である。わたしは「民主化」の中身が気になって、「民主とは何か」とデモの学生らに尋ねた。かれらは「民主とは人民が主人公のことで、君主は国王が主人公という意味だ」と答えた。かさねて「倒爺」は共産党の官僚ではないか?共産党になぜ反対しないのかと訊くと、「われわれは打倒共産党とは言わない。役人のやり方を改めろといっているだけだ」と言った。
 わたしは言論の自由とか国政選挙といった「ブルジョア民主主義」の常識を期待していたからかれらの目標があいまいなのを意外に感じた。また、かれらは弾圧を怖れていたようだ。だからか、「言者無罪」「秋後算賬反対(チュウホウスワンチャン)」を叫んだ。「秋後算賬」とは収穫後の清算、すなわち「時期を見計らって報復する」という意味である。
 天津ではおおむねこのようなものであったが、北京の学生運動の主流である王丹とかウアルカイシ、柴玲といった指導者らの考えはわからなかった。だが、大きな違いはなかっただろう。かれらもやはり「共産党の指導する政府に反対するものではない、指導者の誰それを打倒しようとするものではない」と言いながら、その一方で「真の民主政府を樹立しようというのが我々の目的だ」と言っていたのだから(「新聞導報」5月2日)。
 ある生徒の親は「中国革命はプロレタリア革命ではない。中国にプロレタリアはいなかったのだから実は農民革命だった。だから選挙も議会制もないのだ。人民に役人をコントロールする権力がないから汚職が起きるのは当然だ」といった。わたしはいまでもこの人を尊敬している。

 運動が高まると、デモ参加者はいっとき百数十万に達した。わたしの生徒たちも校内に「北京の兄姉を支援しよう」という「大字報(壁新聞)」を張り出し、ワッとばかりに街頭に出た。校長は止めようとしたが教師たちは知らんふりしていた。街路から街路へ学生や少年少女のデモが続いた。市民はこれにお茶やマントウ(蒸しパン)を配った。
 学生らはこんな歌を歌った。「打倒李鵬・打倒李鵬、鄧小平・鄧小平/流氓分子(リュウマンフェンズ)・流氓分子、楊尚昆・楊尚昆」当時楊尚昆は国家主席、北京に戒厳令を発した李鵬は総理だったが無能と言われ、憎しみの対象だった。「流氓」はごろつき、チンピラの意味である。こんな笑い話が作られて広がった。
 サッカーの王様ペレとテノール歌手パヴァロッティと李鵬が一緒に旅行した。3人ともパスポートをホテルに置き忘れたので税関で止められた。役人は「では自分で本人であることを証明せよ。そうすれば出国を許す」といった。ペレはボールを蹴って見せ、パヴァロッティはイタリア民謡の一節を歌って無事通関した。李鵬は困って「わたしは間抜けで何もできません」といった。役人は「なるほど、まさに君は間違いなく李鵬である」と出国を許した。

 北京に戒厳令が発動されると社会全体が緊張した。軍が動員されたとか反乱がおきたとか、あれこれのうわさが飛び交った。学校の運転手はことに備えて小麦粉の大袋を買い込んだ。生徒に尊敬された若い副校長は「党中央はまもなく断固たる態度に出るでしょう。この状況で鄧小平が学生らと妥協するはずはありませんから」といった。
 鄧小平ら党の最高指導者らは、学生と市民のデモに支配体制の危機を直感した。革命第一世代は戦慄し、6月4日未明、運動に苛烈な血の弾圧を加えて永遠の中共独裁を宣言したのである。そして多くの学生・市民の命が「国際歌(インターナショナル)」の歌声の中に消えた。以後、「インターナショナル」は中共当局にとって「反党反愛国の歌」となった。
 当局は「秋後算賬」をはじめ、運動を主導したと思われる学生、知識人を多数逮捕した。柴玲ら何人かは密出国に成功した。米CIAと英MI6の助けがあったといわれる。趙紫陽は動乱を支持し党を分裂させたとして党総書記の職務を解かれ生涯監禁された。

 わたしはこの年の7月半ばに帰国した。日本には「民主化」運動が中共の一党支配を否定し体制変革を要求したかのような論評がそこかしこにあふれていてひどくちぐはぐなものを感じた。たしかに反体制派知識人の中にはそういう人もいたが、学生・市民の多くは一党支配を否定せず、「民主化」を要求するという一見矛盾した考えを持っていた。
 これならばどこかの時点で、中共中央と学生市民運動が胸襟を開いて話し合えれば妥協することができ、悲劇は避けられたはずである。だが、それは不可能だった。理由は国家体制にある。中共一党独裁の正統性は国民による国政選挙によって担保されるのではない。毛沢東時代もその後も共産党軍(=人民解放軍)という武装装置によって維持された脆弱なものである。だからことあるごとに過剰に反応する。たとえばコロナ禍の都市封鎖に抗議する「白紙運動」を中共当局は力ずくでねじ伏せたのである。
 これに対して学生市民の運動はといえば、強固な統一指導部がなかったために中共中央に柔軟に対応することができなかった。もっといえば、運動にありがちな跳ね上がりを抑えることができず、デモを一時中止して対話すべき時にそうできなかったのである。

 いま、デフレが長引くなか、習近平の「中華民族の偉大なる復興」というスローガンは色あせ、毛沢東時代にあとずさりしたかのような閉鎖的で抑圧的な政治になった。これがいつまでもつか、もう4、5年生きて結末を見たいとねがっている。
                          (2025・06・09)

初出:「リベラル21」2025.6.14より許可を得て転載

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