天皇と日本のかかわりは深い。切っても切れない関係にある。天皇を抜きにしては、日本の歴史・政治・宗教・文化は語れない。天皇の生前退位の表明報道(2016.7.13)を視聴し、あらためて天皇と日本のかかわりについて考えてみた。
「天皇」という語は中国語から取り入れられて日本語となったことば(=漢語)である。中国語では天皇は天の最高神を意味したが、唐の674年以降、地上の君主の意味で使用されるようになった。つまり、天皇という称号の日本での使用開始は、第40代天武天皇(在位:673~686)以後となる。それ以前、天皇は「すめらみこと」と呼ばれていた。西郷信綱によると、「すめら」は「澄める」に由来するという。「みこと(尊・命)」は神または貴人の尊称なので、「すめらみこと」は神聖な貴人を意味する。「天皇」は漢語、「すめらみこと」は大和言葉。
天皇家の歴史は古い。戦前、天皇家は万世一系(ばんせいいっけい)と喧伝されていたので多くの人は今でも、天皇家は同じ血筋で古代から現代に至るまでえんえんと続いていると信じているか、またはそうあってほしいと思っている。日本の初代の天皇は神武天皇(在位:前660~前585)、現在の平成天皇(今上天皇)は第125代天皇(在位:1989~)とされる。しかし天皇家が万世一系というのはもちろん事実ではない。歴代の天皇のうち、とくに古代初期の天皇は神話伝説であり史実ではない。
戦後、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」が一世を風靡(ふうび)した。これは、日本の大和政権は大陸から渡来した東北アジアの騎馬民族が樹立したとする学説である。これによると、天皇家の先祖は大陸からの渡来人となる。騎馬民族説はマスメディアでさかんに取り上げられ、ブームとなり一般人から広く支持された。敗戦を契機に、戦前の天皇制(天皇主権)から戦後の象徴天皇制(国民主権)に日本が大きく変化する過程で、時代が江上説を必要としたのもしれない。この仮説には、神武以来の万世一系という天皇家の神話をうちこわす解放感があった。
しかし騎馬民族説は今日、支持する専門家が少なく、日本の古代史学界ではほとんど否定されている。ウィキペディアの「騎馬民族征服王朝説」によると、その理由は、1. 考古学の成果からみて、前期古墳文化と後期古墳文化の間には断絶はなく、強い連続性が認められること。 2. 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書にはその記載がなく、それどころか中国の史書では、紀元前1世紀から7世紀に至るまで日本を一貫して「倭」と呼んでおり連続性が見られること。 3. 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと。(以下略)
弥生時代後期から古墳時代にかけて、日本には大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が流入したのはまちがいない。しかしそれは穏やかな流入であり、少なくとも王朝が交代するような大規模かつ急激な事態は無かったというのが現代の定説である。
天皇家の人々の中で現在、国民に最も敬愛されている人物は、おそらく聖徳太子(574~622)であろう。第33代女帝、推古天皇(在位:592~628)のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣し大陸の進んだ文化を取り入れ、冠位十二階や十七条憲法を制定するなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。
聖徳太子の死後、古代日本の国家制度は律令制に移行する。「律」は刑法、「令」は行政法・民法などにあたる。律令制は古代中国に始まり唐代に完成し、その影響は東アジア諸国にも広まった。日本では、大化の改新(645年)を経て、第40代天武天皇(在位:673~686)の時代に、律令体制がほぼ完成したという。こうして古代日本は、天皇を君主とする官僚制度によって統治されることになった。
律令制下の天皇は中国流の皇帝として位置づけられたが、両者は基本的に異なる。
1. 天皇は世襲制で君主に選ばれたが、中国の皇帝は有徳者が天命を受けて君主となった。
たとえば、秦の始皇帝は紀元前247年秦王となり、前221年 武力で中国全土を統一し皇帝(在位:前222~前210)となったが、彼の死後わずか4年で秦王朝は項羽や劉邦などによって滅ぼされ、中国は項羽以下の多くの新しい王によって分割統治された。
2. 天皇は日本固有の民族宗教「神道」の指導者だが、皇帝は世俗的君主である。
原始・古代社会の日本人は人間の力を超えたものに畏怖の念を抱き、それをカミと呼んだ。また、あらゆるものに魂があり、魂をカミ、その働きもカミと考えていた。天皇はこうした土着の宗教「神道」の指導者である。カミとの交流は収穫祭や稲作儀礼など宗教的儀式を通して行われるが、天皇はそうした儀式の最高の司祭者でもある。
天皇が主権者として日本を治めた期間は、古代(250-1185)と近代(1868-1945)の約千年である。中世(1185-1573)と近世(1573-1868)は武家の台頭により、天皇は次第に政治的実権を失い、名目上の主権者となるが、それでも鎌倉・室町・江戸の幕府の長を征夷大将軍に任命するなど、任命権や認証権を持ち、一定の政治的影響力を保持し続けた。武力で天下統一した者でも、政権を長期的に維持するには人民の信任を得る必要があり、それには天皇のお墨付きが不可欠だったのかもしれない。
明治維新で天皇は君主として再び返り咲いた。天皇は統治権を持つ元首となり、天皇に直属する文武の官僚が権力を行使する絶対主義的な政治機構および天皇を倫理・道徳の中心とする政治・社会体制(=天皇制)が成立した。天皇制は明治憲法で法的に確立され、明治・大正を経て昭和初期の太平洋戦争に敗北するまで77年間継続した。
しかし1945年、敗戦で天皇は元首の地位を剥奪され、日本国および日本国民統合の象徴となり、主権は天皇から国民に移行した。天皇は国家的儀礼としての国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(=象徴天皇制)。
象徴天皇制は現在、大多数の国民によって支持されている。
2009年10月末にNHKが行った世論調査『平成の皇室観』では、天皇のありかたについて、「天皇は現在と同じく象徴でよい」と回答した人の割合が圧倒的に高い。
1. 天皇に政治的権限を与える … 5.9%
2. 天皇は現在と同じく象徴でよい … 81.9%
3. 天皇制は廃止する … 7.5%
こうした国民の圧倒的支持を背景に、日本の各政党も立場の違いはあるが、いずれも象徴天皇制を維持する方針を示している。自民党は2012年版『日本国憲法改正草案』の第1条で、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と表明しているし、共産党も民主共和制を目標としながらも、当面、象徴天皇制と共存する方針である。そうすると、象徴天皇制は今後も継続し、それに関連する元号法も存続することになる。
天皇の生前退位についても、メディアの世論調査によると、国民の85%が賛成しているという。こうした現状を考慮すると、遅かれ早かれ、皇室典範は「生前退位」「生前譲位」を認めるように改正され、元号も平成から新しい元号に変わるのは、まず、まちがいない。
しかし、天皇制はしょせん君主制であり、世界史的にみて君主制をとる国は次第に減少しつつある。元号は古代の中国王朝を起源とする古い時代の年代記述方式で、日本でしか通用しない。現代は西暦が世界標準だ。日本は国際社会の一員であり、物事はもっと国際的、世界的視野に立って判断したほうがよいのではないか。
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