昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。
2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。
天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。
代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。
ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。
見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」
リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。
産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。
私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。
産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」
ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。
産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」
ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。
だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。
「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」
この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。
日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。
天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。
そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.12.2より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9549
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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