天皇夫妻のペリリュー慰霊訪問(1) ―「山月記」の作者がみた南の島―

 作家中島敦(なかじま・あつし)は1941年7月から42年3月まで南洋庁の役人としてパラオ本島に滞在した。大東亜戦争開戦をはさむ約8ヶ月間である。

《南洋庁で教科書編纂をした作家》
 一高・東大文学部・同大学院を終えた文学青年は、横浜高等女学校に職を得たが、宿痾の喘息に悩まされていた。南洋庁に勤めたのは転地療養の意図もあったらしい。
南洋庁とは何か。
1943年版の『朝日年鑑』の南洋群島の記述を要約して次に掲げる。(■から■まで)
■南洋群島 欧州大戦後の対独平和条約で大正9年日本の委任統治地域となった。マーシヤル、マリアナ、カロリン3郡島、623の島嶼から成り、総面積は東京府とほぼ同じ。四季の別がない「常夏の国」である。大正11年南洋庁を置いた。カロリン群島中のパラオ諸島のコロール島にある。1940年現在、人口は13.5万人(うち邦人8.5万人)。国民学校35、児童1,100人。他に島民児童用の公学校26校、児童3、400人。甘藷、椰子実の生産と加工、水産を主業とする。■

南洋群島は「外地」に分類されている。因みに「外地」とは、「朝鮮・台湾・樺太・南洋群島・関東州」のことである。委任統治とは植民地の一変種とみればよい。第一次世界大戦の帰結として、ドイツの植民地が「大日本帝国」の植民地になったのである。
中島の仕事は、現地の学校教科書の編纂や教育指導だった。仕事はあまり進まなかったようである。喘息の発作、初めての役所仕事、職場環境の悪さなどが原因である。現地ではパラオ諸島だけでなくサイパン島やトラック島などのちに太平洋戦争の激戦地となる島々を訪ねている。42年2月にはペリリュー島にも滞在している。

中島が出した家族宛の手紙から数編をあげる。(仮名遣いなど一部修正)
■喘息の方も、極めて良好とはいえませぬが、内地の冬のことを考えますと、遙かに楽にすごしております。むしろ問題は、国際情勢の逼迫と、群島の食糧問題の方に在るように思われますが、之はどうにも、一下級官吏が如何に考えた所でどうにもならぬ話で、之で死ぬるものならば、これは、もう天なり命なりとあきらめるより他ございません。(略)詳しく書くことが許されておりませんので、困るのですが〔爆死と餓死を〕将来の非常な危険を予想しないでは、此方へ来ることは出来ないような有様です。たか(敦の妻)によくよくお言いくるめの程、願います。41年8月22日 父中島田人宛
■隣の部屋の月田一郎という俳優は、全く感じの良い男だなあ。少しもすれた所がないぜ。(略)南洋へは、ロケーションに来たんだそうだ。その映画は三月頃封切になるだろうという。「南海の花束」とか何とかいう題だそうだ。パラオが出てくるそうだから、お前たち、都合が出来たら、見てこいよ。41年11月21日 妻たか宛
■けさ、クサイという島につきました。
クサイという名前でも、少しもくさくありません。かえつてバナナやレモンのいいにおいがするくらいです。島へあがってみちを行くと、島民の子が「コンニチハ」とあいさつします。ぼくも「コンニチハ」と言ってやります。すると子どもたちがわらいます。ぼくもニコリとわらいます。41年9月25日 子供(二人の息子)宛

《開戦・帰国・夭折》
■いよいよ来るべきものが来たね。どうだい、日本の海軍機のすばらしさは。ラジオの自由に聞けるそちらがうらやましいな。(略)戦争が始まって、そちらでは、さぞ、南海の方のことを心配してくれていると思う。しかし、このサイパン・テニヤン地方は、全く平静だ。実際の所、グァムは他愛なく、つぶれるし、この辺は空襲を受ける心配もまず無いからね。パラオの方は、フィリピンに近いので、幾分の危険があることは確かだが、それも大したことはあるまい。そりゃ戦争のことだから、多少の危険があることは覚悟しているさ。しかし、むしろ、怖いのは、喘息という病気の方だよ。41年12月14日 妻たか宛(サイパン島より発信)

中島もまた緒戦の勝利に将来を楽観している。しかし作家は役人を辞めて42年3月に帰国し再び南の海をみることはなかった。喘息もそれほど好転しなかったし何より知的刺激に乏しいことが理由であった。

《「李陵」の出版すら見ないで》
 中島敦の作品はどのように世に出たのか。
「狼疾記」「かめれおん日記」「悟浄歎異」「ツシタラの死」「山月記」などはパラオ渡航前に書かれていた。「悟浄出世」が完成したのは帰国後の6月、「李陵(りりょう)」は10月である。
出版は、42年2月に「山月記」と「文字禍」の二作が「古潭」と題して、雑誌『文学界』(文藝春秋社発行)の2月号に掲載されたのが最初である。同年5月に「光と風と夢―五川荘日記抄」(「ツシタラの死」を改題)が、同じ雑誌の5月号に掲載された。7月に第一創作集「光と風と夢」が筑摩書房から、11月に第二創作集『南島譚』を今日の問題社から刊行された。12月1日には「名人伝」が『文庫』(三笠書房発行)に掲載された。
作家中島敦は、42年12年4日午前6時に喘息のため世を去った。34歳であった。私は中島敦の作品が傑作であることを自明として書いてきた。素人の説明より自分で読んでもらう方が良いと思うからである。

中島文学へのラジカルな評価者である武田泰淳の中島論の一節を掲げる。気になる部分を選択したのも読者への挑発のつもりである。『わが西遊記』は上述の「悟浄歎異」「悟浄出世」の連作を内容とする作品である。
■中島の暗さは、詠嘆的、叙情的なものではない。むしろ極端に理知的で、正確なものである。彼は小学校四年の頃、受持の教師から地球の運命についての話を聴いた。地球が冷却し人類が滅びる、怖い話である。太陽までが消えてしまうのだ。太陽が冷え、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。彼には、それからいつも、この種のたまらなさがついてまわるのである。(「作家の狼疾」―中島敦の『わが西遊記』をよむ―、『中国文学』・1948年1・2月合併号)

「フィリピンに近いので、幾分の危険があることは確かだが、それも大したことはあるまい」と中島が書いたパラオ諸島のペリリュー島で3年足らずののち日本軍は米軍と戦いほぼ全滅した。

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