《おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ》
作家中野重治(なかの・しげはる,1902~79)のエッセイ「冬に入る」にパラオの帰還兵が出てくる(月刊誌『展望』、1946年1月号)。正確にいうとパラオ帰還兵は、中野が引用した新聞投書に出てくるのである。投書は1945年11月4日の『東京新聞』に載った。安藤安枝という人が書いた「ある日の傷心」という文章である。長いが投書全文を掲げる。(■から■まで)
■十月三十日お茶の水の千葉行ホームに立って居りました私の耳に、異様などよめきと共に『おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ』と大きな声が響き渡って来ました。私は内心敗戦したとは云え、兵隊さん達は懐かしい日本の地を踏みしめてどんなに嬉しそうなお顔をして居られるかと待兼ねました。電車に乗られるため後方ホームより、前方ホームに白衣も眩しく歩んでこられました。
然し眼前に見えた兵隊さん達のお顔は率直に申せば骸骨そのままです。即製の竹の杖を皆さんがつき、その手は皮だけで覆われ恐らくあの白衣の下の肉体も想像がつきます。新聞で読む栄養失調の兵隊さんの顔には白い粉がふいているとのことでしたが、目の前に見た兵隊さんの顔は誰も皆小麦粉を吹き付けた様な白さ、此の兵隊さんの姿を見て男の方も女の方達も声を上げて泣き出してしまいました。
此の様に兵隊さんの肉を削った戦争責任者は之だけでも重罰の価値がありましょう。この兵隊さんの姿を妻や子が親が見たらどんなでしょう。電車を待つ間にやっと私は兵隊さんに『御苦労様でした、大変で御座いましたでしょうね』と泣きながら申しますと、一人の兵隊さんが『いーやー』と心持ち首を動かしましたが、男の人の気軽さでいう声が出せないんです。
混雑するので思わず私は側にいた見知らぬ子供の手を引いて居りましたが、目の前にいた兵隊さんが不自由に手を動かし、鞄の中からお弁当箱を出して、蓋の上に乾パンを載せ、声も出ぬ儘私の手を引いて居ります子供に差し出されたではありませんか。子供は無邪気に両手を出しましたが、そのお子さんの母は『勿体なくて戴けません』と繰返し泣いて居りました。私は兵隊さんの御心情も察せられ『折角の兵隊さんのお心持故戴きましょうね』と戴きました。涙で見送る眼に白衣だけが残り、二両目に乗りましたが、車外では兵隊さんを御送りしょうと一斉に心からのお見送りをして居りました。
皆さんデモクラシー運動も大いにやって下さい。
婦選運動も結構でしょう。然しこう云った兵隊さんが各所に居られることを忘れないで心に銘記してからやって下さい。戦災死、戦災者の方達の上にも心を止めないことには、敗戦日本に与えられた只一つの有難い国体護持も道義滅亡によって無価値なものとなるでしょう。■
中野はこの投書に関して次のように書いている。
これが全文である。これを泣かずに読める日本人はあるまい。そうして安藤氏の兵隊にたいする気持ちも、すべての日本人に素直に呑みこめるだろうと私は思う。また、「デモクラシー運動」や「婦選運動」やが、こういう兵隊の存在と安藤氏の心持ちなどから多少とも離れたもののように安藤氏に映じていることもすべての人が素直に受けとるだろうと思う。そしてこのことが、独立の民主主義革命をとおしてでなしに、民主主義ないし民主主義への糸ぐちがいわば外から与えられたという国の歴史的実情に結びついている。
中野の文章の核心は、河上徹太郎の「配給された自由」論への批判であった。だから私の中野からの引用は、都合のよいところを切り取っているかも知れない。しかし今は、河上・中野論争に深入りしない。興味を感じた読者は、『中野重治評論集』(平凡社ライブラリー、1996年)の編者林淑美の解説にあたって欲しい。
《しまいに、声が出、それが慟哭になった》
次の文章は、演劇評論家安藤鶴夫(あんどう・つるお、1908~69)が靖国神社の境内で感じたことを書いたものである(■から■まで。『わたしの東京』、求龍堂、1968年刊から一部を引用)。1945年秋、安藤は東京新聞記者として日本の伝統芸能の現状とその行方を取材していた。ある日、安藤は靖国の社務所にあった能楽協会を訪ねた。
■広い靖国神社の境内に、どこをみても、人っ子ひとりいなかった。
わたしには、つい、このあいだまでのことを考えると、一瞬にして、その、おなじ靖国神社が、こんなふうに変わってしまったように思われ、急に気持ちがわるくなって、立ちどまり、うしろをみた。うしろにも、まったく、人影がない。わたしは急に、この東京の中で、ひとりぼっちになってしまったように、こころぼそく、かなしくなった。そういえば、戦争が終って、一年ぐらいのあいだ、よく、わたしは、 そんなふうな、なんともいえない孤独感におそわれたものである。しかし、この時の、靖国神社のときほどの、さびしい孤独感はない。
(略)能楽協会の三宅襄さんが出てきた。三宅さんの頬が、がっくり、こけているのにびっくりした。なんだか、目ばかり、ぎょろぎょろしている感じだった。くらく、つめたい社務所へ上って、少し、ねばって、五時、ちかくまでいた。
そのあいだ中、誰ひとりとして、境内を歩いてきた者はなかった。と、いうことは、誰ひとり、靖国神社へおまいりをする者がいないということである。三時、四時、五時―、だから、ざっと、三時間ちかくも、わたしは社務所の、あけはなった窓から、境内が、はっきり視線の中に入る場所にいて、取材をしていたのだけれど、そのあいだ中、まったく、誰ひとり、通らなかった。
帰りがけ、三宅さんに、毎日、こんなふうに、誰ももう靖国神社に詣でるひとはいないのですか、と、きいたら、はい、マァ、そうですな、といった。
ひとりで、また、玉砂利を踏んで、神殿にぬかずいた。誰もいないので、誰に、遠慮も、気がねもなく、泣いた。しまいに、声が出、それが慟哭になった。■
《モトノモクアミに化していくのだろうか》
評論家の臼井吉見(うすい・よしみ、1905~87)が1964年に書いた「戦没者追悼式の表情」というエッセイがある。政府主催の第二回戦没者追悼式(遺族会の要求で靖国神社で開催)に出る未亡人が、満面の微笑とともに、「感謝と感激でいっぱい、なんと申していいものやら、胸がつまって、言葉もございません」と答えているテレビ画面を、臼井が、みたこと、また、『あの人は帰ってこなかった』という新刊を読んだら、岩手県山村の一部落では、125人が出征して、32人の未亡人が出たこと、そして未亡人の一人が次のよう語ったこと、について書いている。「エヤ、戦争どう思うってすか? なに、やらねばならなくてやったんだべからナス。アン、仕方ねぇことだったべと思ってるナス。戦死した家、皆気の毒だったナス。オレばかりでなくナス。オレより苦労した人、まだいっぱいいるベモ」
臼井はこう続けている(■から■まで)。
■(あとの人は)靖国神社その他が出てこないうちだから、まさか感謝感激はしていない。だが、このあきらめぶりは、戦前と寸分の変わりもない。
十九年かかって、モトノモクアミに仕立ててしまったということ、これをすべて反動勢力のしわざにしてしまうわけにはいくまい。その勢力がものを言ったことを疑うものではないが、責任はむしろ革新勢力にあるのではないかと思われてならない。浮き足だって突っ走り、自分の金切り声に自分で酔い、口を開けば、ソレ戦争にナル、ヤレ戦争につながるの一点ばり、そのすべてが逆用されたといえば、言い過ぎであろうか。
適時に、ぬからずクサビを打ち込むこと、ここからは断じて後戻りさせないという、派手ではないが大事なクサビ打ちの仕事を革新勢力はやって来たかどうか。職業柄、日教組などは、その適任者のはずなのに、これがまっさきかけて突っ走ったのだから話にならない。
戦没者の慰霊祭などは、とっくの昔に、革新勢力の提唱で、国民の名において実行すべきではなかったか。その犠牲によって、日本が近代国家に生れ変り、軍国主義を捨て去ることのできたゆえんをはっきりさせて感謝するほかに、戦没者の霊を慰める道などあろうはずがない。しかるに、戦没者が、あたかも悪事を犯したかのようで、その遺族が、肩身の狭い思いをしなければならぬようなふんいきをかもしだしつつあったのは、どこのだれだったか。たまには胸に手を当てて考えてみるがよい。(略)僕は、先日来、テレビで甲子園の野球見物をしている。この選手たちは、すべて戦後の生まれとか。
あの残虐愚劣きわまりなかった戦争を、話としてしか知らない者どもが、ここまで育ってきたかと思うと感無量だった。こうしてすべては忘れられ、モトノモクアミに化していくのだろうか。まさか?■
七〇年前の二つ、五〇年前の一つの文章は私に突き刺さる。一人の共産主義者を含む彼らの文章にあるのは、おのれの内面から出た心情の表現である。イデオロギーが先行していない。実感がこもっている。大衆の目線がある。
心情や実感だけではない。状況の観察、政策の提言も的確である。敗戦の現実から目を逸らす精神、靖国への蝟集と靖国からの逃亡、モトノモクアミを自覚しない精神。総じていえば歴史の連続と断絶を正視しない心理構造。三つの文章はこれらを正確にとらえているのである。(2015/05/06)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5373:150525〕