この4月27日、韓国は「健康家庭基本計画(2021~25年)」を閣議決定したという。現在の「婚姻、血縁関係、養子縁組だけで規定されている」家族の定義を広げる方向で、健康家庭基本法の改正を進めるという。
かつては、日本の「同姓(同氏)の夫婦・家族」よりも、さらに女性差別が著しいと言われた「夫婦別姓」であった韓国。それは「女は結婚しても夫の家の姓にはならない、させない」「夫による追い出し離婚しか認められない」というものだった。さらに、元々多くはない韓国の姓の数にもかかわらず、「同姓」の者同士は結婚不可、という「同姓不婚」の制度も根強かった。
それらが1997年の憲法裁判所による「憲法不合致」の決定以来、少しずつ改められ、ようやく2008年1月1日の「家族関係登録制度」によって戸籍制度が廃止されたという。
そのような流れの中で、今回はさらに、「婚中子/婚外子」という用語をなくし、すべて子どもは「子女」(「子」ではない?)に統一されること、子どもの姓は出生届提出時に、両親が協議して決めること、また、事実婚の夫婦の権利拡大なども配慮されるという(「同性婚」はどうなるか?)。
もちろん、「少子化」の進行は日本以上だし、20~30代の未婚者が増えているのも日本同様であり、「家族」をめぐる問題は簡単ではないだろう。だが、「選択制夫婦別姓」一つ、政治的な論点にされたまま、なかなか動かない日本に比べて、韓国の動きは機敏である。なぜ、日本では、「家族」をめぐる改革が難航するのか・・・それは今後とも、粘り強く考えていかなければならない大きなテーマの一つであろう。(参考までに、世界経済フォーラムの2021年ジェンダーギャップ報告書では、日本は156カ国内で、120位、韓国は102位である。)
「新しい社会運動(左派)」に「草の根の保守運動(右派)」が並立
たまたま新聞の書評欄に目が止まった。それは鈴木彩加『女性たちの保守運動―右傾化する日本社会のジェンダー』(人文書院、2019)である。著者は1985年生まれ、現在30代半ばである。この書物は、彼女の博士学位論文(2016年)の書籍化されたものである。
この書の中でも指摘されているが、1960年までは、「社会運動」といえば主に労働運動、立場としては「反体制」「左派」であった。60年代後半のベトナム反戦、学園闘争、新左翼運動等々を経た後の1970年代以降、女性運動(ウーマン・リブ)、環境運動(グリーン、エコロジー)、障害者運動、エスニックマイノリティなど、社会的少数者による運動が起こり、それらは「新しい社会運動」と呼ばれた。ただ、この辺りまでは、「運動・社会運動」とは、「異議申し立て」「体制批判・反体制」、いわゆる「左」側の運動が主であった。
ところが、1979年6月6日の「元号法」制定に向けての、地方議会対策など、地方からの盛り上げの動きが、やがて、「日本を守る国民会議」「日本を守る会」(1981年)の結成を経、1997年5月30日、合同の「日本会議」設立に至っている。これらの運動は、明らかに、名前の通り「日本を守る」運動であり、天皇制、日本国家、日本の文化・伝統を保持していこうとするまさしく「保守の運動」であり、「右派」の運動に他ならない。
この、どちらかといえば男性が主体であった「日本会議」に、女性の参加や「女性の会」結成が目立ってくるのが2000年代初めから半ばにかけてである。
この「女性たちの保守運動=草の根の保守」と見なされる団体や運動は、大きくは、① 男女共同参画政策への反対、② 韓国「慰安婦」(元日本軍慰安婦)救済政策への反対、の二つであるという。今回は、前者の「男女共同参画反対運動=ジェンダーバッシング」に焦点を当てよう。
2000年代前半の「ジェンダーバッシング」とは?
それは紛れもなく、1999年に制定された「男女共同参画社会基本法」制定がきっかけである。この基本法は、各地方自治体での条例制定を元にして具体化されるものであった。したがって、2000年代前半は、条例制定を望む人々と、それを阻止し、あるいは文面変更を求める人々とが、激しくぶっつかりあった時代である。
山口県宇部市では、条例制定反対の立場の、「やまぐち女性フォーラム宇部」「男女共同参画を考える宇部女性の会」の二つの団体までもが存在し、堂本暁子千葉県知事の下では、結局、男女共同参画社会基本条例は制定できないままに終わっている。
また、2001年、「日本会議」の中に、「日本女性の会」が結成され、その後、女性だけ、あるいは女性を主とする団体の結成が際立っている。
「日本女性の会・そよ風」(2007年、会員570名)、「愛国女性のつどい・花時計」(2010年4月、会員1040名)、「なでしこアクション」(2010年、慰安婦問題に特化)、
「現代撫子俱楽部」「凛風やまと・獅子の会」など。
これら「(日本)女性の会」は、なぜ「男女共同参画」の思想と施策に反対するのだろうか。愛媛県松山市の攻防を、参考に見てみよう。松山市の条例制定の本会議の前には、「全国から「性と生殖の自己決定権は中絶やフリーセックスを容認し、道徳の退廃につながる」という意見が、ファックス、手紙、メールによって寄せられ」、また事前に、「身体および精神における男女の特性の違いに配慮すること」「専業主婦の社会的貢献を評価し、支持すること」「ジェンダー学あるいは女性学の学習あるいは研究を奨励しないこと」などを内容とする請願が提出されており、2007年12月17日の本会議で採択されている。この松山市では、すでに「男女共同参画に反対する市民団体A会」が結成されており、そこでは会報「なでしこ通信」が発行されている。
「なでしこ通信」創刊号(2004年)では、「男女共同参画」に反対する理由が、次の6つにまとめられている(p.187)。
① 男らしさ・女らしさの尊重 ② 家族の絆の重視 ③ 性の自己決定の見直し
④ 子どもの発達段階に配慮した性教育 ⑤ 表現の自由の遵守
⑥ 伝統文化の尊重
「女性たちの保守運動」の矛盾と可能性―「自立」とは何か? 「ケア」とは何か?
上記松山市での請願の内容や、A会の6つの反対理由を見ると、確かに、「男と女の性別維持・尊重」「社会と家庭内での性別役割遵守」「性は‟奥ゆかしいもの”」「家族の絆=主婦の役割=重視」などの、「保守的な理由」が目立つ。
それは、「男女共同参画社会」のイメージが、政府の掲げる「女性活躍推進法」とも重なって、「女性もまた、家庭内に閉じこもっていないで、社会で(労働の場で)共同に=対等に活躍しましょう!」というようなメッセージとして、不正確に受け止められているからかもしれない。そのように受け止めるとすれば、確かに、企業や政治の場で「活躍」している「魅力的な」女性は、申し訳ないがほとんど見当たらない。とりわけ、ドイツのメルケル首相のように、人間としての誠実さが表われ、自分の言葉で語る「女性政治家(男性政治家もだが!)」は皆無に近い。それならば、もっと身近の、足元の家族・家庭を見ようではないか、となるのだろう。
ただ、ここで、鈴木彩加氏が指摘しているのだが、男性たち中心の「ジェンダーバッシング」は、国家を支える「家族」の重視という、規範的な抽象論になっているのに対して、女性たちの「家族保守」の立場は、どこまでも「自分の家族」の実態と、そこでの「主婦としての役割」という経験に即している、ということである。
男性たち中心の「家族」重視論と「性別役割」肯定論は、一つの観念でしかないために、現実の家族の実態は見ようともされず、現実の主婦たちの献身や悩みに気づこうともされない。それに反して、女性たちの家族重視=ジェンダーバッシングは、現在の家族の人間関係を維持することがどれほどの苦労を伴うものなのか、そこでの葛藤や悩みに裏打ちされたものである。「家庭の主婦」に押しつけられている夫の生活の世話、子育ておよび子どもの世話、家族の中の人間的な調和を図ること・・・これらは、決して無視されてはならず、もっと社会的に認められ評価されるべきではないか・・・という思いもくみ取れるのではないか、と鈴木氏は言う。
これらの主張は、かつての「主婦論争」の中での「主婦の働きを認めよ!」という立場にも連なり、さらに、人と人との関わりにおける「ケア」の働きを認め重視しようとする「ケア・フェミニズム」(ファインマン、E・ケティ、岡野八代、金井淑子など)とも重なり合う部分があるのは確かである。もっと丁寧に論争される必要があるのだろう。
また、フェミニズムにおける「男女共同参画」や「自立論」が、「働く」ということだけでなく、どこまで「労働と生活」を同時に射程に入れているのか、ここもさらに自省されていい点ではないだろうか。
同時に、「主婦」たちの「ジェンダーバッシング」が、「保守」の場に立ちながらも、ある所で立ち止まっていることを、つまり、彼女たちは、自分たち「主婦」の努力を自認しながらも、さらに分け入って、そこでの葛藤や悩み(自己解放の渇望)や、「家族」は不変でも普遍でもないという事実、さらに多くの男性たちの無自覚、無頓着、権力性という事実、それらすべてに目を塞いでいるということ—―それらを、もっと率直に指摘してもよいのではなかろうか。
またまた、楽観的なことを述べてしまったかもしれない。しかし、立場の違いはあったとしても、「論争」はつねに可能だという、そういう関係性は大切にしたいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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