子安宣邦『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012年)をいかに評価すべきか  ――竹内好と吉本隆明の言説の間で

1. なぜ本書が日本ではなく、中国で評価されるのか
 子安宣邦『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012年)が中国語に翻訳され、『近代日本の中国観』(生活・読書・新知三聯書店、2020年)として出版されたというニュースを少なからぬ驚きをもって受け止めていたところ、さらに今回、郭穎(廈門大学外文学院准教授)によるきわめて重厚なる書評(陳璐訳)「戦後における「江湖中国観」の欠如――日本に冷遇された方法論的著作」が本書のもつ潜在的重要性について指摘し、日中間で幾重にも屈折した言説空間を大きく修正するうえで大きな役割を果たしていることを知った。この冒頭で郭は、本書における次のような子安の言葉を引用している。

 「中国とは昭和日本の問題であった。昭和日本の国家的運命、すなわち国家的進展の歴史的帰趨を究極的に規定するようにして中国問題があった。……われわれはどのような中国と、どのようにしてアジアの平和を確保していくのか。これが平成日本の国家的運命にかかわる本質的な問題であるはずである」1。

 その基本的問いとは、何よりも日本と中国とはいまだに本質的な「隣人関係」を構築できずにいるのはいったい何故なのか、ということにある。たしかに、昭和から平成を経て、そして令和にいたるまで、両国の経済関係はいかに緊密に繋がっているように見えるかもしれない。だが、実際のところ、そこには本質的にはたんに「疎遠な関係」が横たわっているだけである。その根源的問題性とは、日本が中国をどう見ているかということと深く繋がっているがゆえに、「近代日本知識人の中国観を再読することを通して、アジア主義・中国主義の思想系譜に基づき、同じく現代知識人として、中国を考察する方法や、中国と付き合う方法をどう見つけるのかを考える」というのが、本書の書かれた目的をめぐる郭の理解である。郭によれば、子安は主に四つの角度でこれらの中国観を評価し判断した。第一に、その考察の方法は、硬直した静的なものではなく、リアルタイムで動的なものであること。第二に、その考察の深さは、表面的なものではなく、洗練されたものであること。第三に、考察の視野に入れているのは、エリート階層のみだけでなく、さまざまな社会階層であること。そして第四に、考察の姿勢は、驕り高ぶったものではなく、純粋でかつ自発的なものである、ということである。

 本書はあたかも、戦前・戦時・戦後という縦の時間軸に沿って、近代アジア主義の系譜にある11人の知識人と彼らの中国観を紹介しているだけのように見えるが、じつはその裏にはもう一つの線があると郭はいう。すなわち、戦前・戦時の北一輝と橘樸、戦後の竹内好と溝口雄三から成り立っている作者の問題意識という「本線」である。郭の見るところ、本書で紹介されているその他の人物は、いわばこの「本線」を際立たせるために中国観の内容の関連性と時代性に合わせた、いくつかの補足や参照という「複線」として挿入されたものでしかない。このような「明暗のある線」が混在することで、本書全体が著者である子安独自の立場で貫かれている。たとえば、橘樸(1881-1945)と尾崎秀実(1901-1944)の二人は、当時の現場を肌で感じ取りながら、長く深く中国の生活を経験しており、日中の時局をはっきり把握していた「江湖的中国観」の代表者である。彼らは、中国問題における最も重要な側面であるナショナリズムを捉え、中国のナショナリズム問題の解決は、日本の変革に密接に繋がっていると考えていた。1906年に中国に来て、1945年に瀋陽で死去するまで、橘樸はその人生のほとんどを中国で過ごした。中国の政治、経済、社会、宗教などさまざまな問題について数多くの文章を発表し、「明治、大正、昭和時代の中国問題の原像を彼の思想と行動の変化の中にほぼ凝縮した」とされている。それは魯迅が「私よりもあの人(橘樸)のほうが中国のことをよく知っている」と心から絶賛するほどであった。それゆえに、中国をより深く理解している橘樸は「水槽的中国観」の持ち主であった内藤湖南をめぐり、特にその淡々としたエリートのような姿勢には賛同しなかったという。

2.中国観の「本線」とは「江湖的」なのか、それとも「水槽的」なのか
 だが、現代中国をいかにとらえるかというコンテクストでいえば、本書で取り上げられた戦後日本の中国研究者のなかでも、とりわけ竹内好、加々美光行、そして溝口雄三が、もっとも重要な意味合いを持っている。そもそも竹内を21世紀に投影して問題化しようとする日本学界の思想的関心とは一体どこにあるのか。日本の近代化に対する竹内の歴史的批判は、東洋と西洋、アジアとヨーロッパの地政学的対比を前提として共有している。つまり、日本の敗戦によって、戦後の日本では地政学的な「東洋/西洋」の論題が復活したのである。これは明らかに侵略主義、拡張主義的な思想を持っているが、同時に反政府的で、かつ反抗的な態度ゆえにアジア主義とも認められていた。竹内好は拡張主義を弁護する一方、日本近現代史にアジア主義者との対抗軸を無理やりに設置している。現代日本の世論は、「アジア」や「東アジア」の問題の復権と竹内好の再評価をめぐる課題だらけで、「竹内の中国観」に戦争責任を問うことを忘れているという。

 郭によれば、加々美光行と溝口雄三は同じように竹内好を支持し、「アジア主義」ならぬ「中国主義」的中国観をもっている。溝口と同様に加々美も、「中国独自の近代」というパターンを発見したことで、竹内好を正しく受け継いでいるかのような言説を展開している。たとえば溝口は、中国史から「独自の近代」を読み解いた一方、「社会主義」の中国を「超克」的に論じていた。溝口は独特な中国を方法として世界の中で認識し、しかも中国を中国として認識することを提唱しつつ、一元的なヨーロッパの世界史に還元できない中国と、世界そのものの多元性を認識することとを、「方法としての中国」という世界認識の理想的かたちとして理解していた。そこまでは通常の理解の範囲内であるとしても、ここで驚くべきなのは、以下のような言説がリベラル・デモクラシーの日本ではなく、習近平による専制独裁体制下の中国において、むしろストレートに受け入れられていることである。郭はいう。

 「竹内好、加々美光行と溝口雄三らは、侵略戦争の内省から親中派の立場をとり、日本のあるべき対中姿勢の模索を目的としている。親中派のように見えたが、その本質は戦時中と同じであり、たんに政府の権威主義的な体制を支持していただけである」2。

 このように、現代日本において、いわゆるアジア主義や中国主義が思想的批判としての機能と意味を失っているという問題性、つまり日本の知識層が沈黙し、中国問題に取り組まなくなっているという日本にとっての「内なる」問題性が、本書が最初に出版された日本ではなく、そのパートナーである「外なる」中国において、しかも日中間の思想的課題として受け入れられているのである。中国研究者ではない人々までが中国問題について盛んに議論し、それが世論であると社会全体に思わせ、日本の対中政策にまで影響を与えていることを客観的に理解すべきなのは、本来は誰よりも当の日本人であるはずであろう。それにもかかわらず、公的言論空間としてはきわめて閉塞した習近平時代に生きる中国の読者にストレートに歓迎されているというのが、日中間における捩れた言説空間の大いなる逆説なのである。とはいえ、戦後日本の中国観としては、竹内好に代表され、かつ溝口雄三を媒介にして発展してきた「竹内的中国観」がいまだに主流派を形成しているという現状を、いったいいかに理解すべきなのか。郭は続ける。

 「竹内であろうと、溝口であろうと、二人の中国に対する見方と考え方は、じつは帝国日本期のパラダイムを引き継いだものであり、時代が違うが、古い酒を新しいボトルに入れ替えただけのようなものであった。そのため、子安氏は経験者の慎重さと知識人としての責任感から、日中関係が最も緊迫していた2012年に本書を出版することにし、近代日本の中国観の再認識を通じて、戦後の中国観の思想的脈絡と道筋を明らかにすることを目指した。フーコーは、かつて歴史家が削除していた「不連続性」が、今や歴史分析の不可欠な基本要素となり、特別な機能を持つようになったと主張する。それと同じように、戦後、方法論としての「江湖的中国観」の欠如に気付いたからこそ、その問題点を明らかにし、中国と日本の付き合い方について歴史的思考を人々に再喚起させるのである」3。

 かくして郭は、竹内に象徴される中国観が、じつは戦前・戦中の日本帝国期におけるアジアの秩序を正当化する一部として中国が位置づけられていたものと同じパラダイムにあることを子安の著作を通してはじめて知るに至り、しかもそれが「江湖的中国観」とはまったく異質なものであることに気づいていった。日本の知識層がそうした「江湖的」意味での中国に対してあまりにも無関心だと考えた子安は、その無関心を本書によって払拭するつもりでいたものの、その出版後、日本の学界や世論には何の変化もおきなかったし、まともな書評の一本さえも出てこないことに愕然とせざるを得なかった。日本の中国研究界は恐るべき「沈黙」を示し、子安本人は自分の評論家としてのキャリアがこれで終わってしまうのではないかとさえ一度は疑ったほどである。なぜこの本が日本のメディアや学界で冷遇されるのかまったく理解できなかったという子安が、その最後の精神的よりどころとしたのが、吉本隆明の「関係の絶対性」である。それは60年安保闘争以降、吉本が一貫して抱えていた政治的ジレンマと同じように、つねに背後から突きつけられる「黙殺」という名の最大の暴力を前にして行使された対抗的「沈黙」のことである。いいかえれば、その確固たる学問的姿勢が党派的関係の中に置かれるや否や、すべての党派の標的になることをあえて子安自身が引き受けたのである。いわば孤立無援の一人の知識人が、まさに個として自立するための究極的かつ倫理的な思想的拠点に一度は追いやられた、ということになる。こうした現代中国に対する見解の違いが、党派や学派の立場を意味している限り、本書が現在の対中的立場の「踏み絵」になってしまっているという厳然たる事実を郭は指摘しているのである。

3.「江湖的中国観」をめぐる竹内好と吉本隆明
 吉本隆明にとって竹内好とは、その思想、理路より先にその人格、風貌に惚れてしまうことで、この人が好きだという感性が先行してしまい、思想的あるいは理論的対立をさまたげるという意味で「苦手な思想家」である。吉本は、毛沢東の『文芸講話』や『矛盾論』、『実践論』のような間違いだらけとしか思えない思想が中国人民にとって「玉条」となり得るという「秘密」がどうしてもわからないというが、この点でいえば竹内好は、日本でただ一人、この「秘密」を実感的にも思想的にもわかっている人である。だが、実際のところ竹内は、この「秘密」を誰にも納得できるような言葉では展開しておらず、中国についてもせいぜいのところ「あばたもえくぼ」程度にしか他人には示していない。それにもかかわらず、中国社会のもっとも本質的な部分をきちんと理解しているように思えるのもまた、吉本にとっては他ならぬ竹内好であることを以下のような記述が示している。

 「しかし、近来、〈天皇制〉の不可解な牽引力についてあれこれと思いめぐらしているわたしには、竹内好さんが〈中国的専制〉の核のところを異邦にありながら把んでいるとおもえるのは、驚くべきことではないのかとかんがえている」4。

 吉本にとって竹内好とは、このように両義的な評価が相半ばする「異教的」存在であった。なぜなら、「骨の髄まで異教にひたり切るという徹底した思想的な伝統をもちあわせていない日本」において、竹内はきわめて例外的な存在だからである5。異教的存在であるがゆえに、「進歩的」知識人たちがある種の共同幻想によって見えなくなっているものも、中国人の精神的内面をその内側から理解できる竹内にはその原像として見えているのではないか。つまり、吉本自身の言葉でいえば、「毛沢東思想には、外からみえる部分と、中国の民衆にだけみえる部分とがあって、両者はまるで違うものなのではないかとおもえる」、そうした中国的コンテクストにおける「大衆の原像」を竹内はきちんと見据えていたということである6。

 たしかに、ここでいわれる「中国的」専制にしても、それは「アジア的なもの」を思想的に突き詰めたところで吉本自身が最終的に辿り着いた「アジア的」専制主義の中国的展開であるのかもしれない。実際、管見に触れる限り、竹内好自身はいかなる著作においても、あるいは講演などでも、そのような記述、あるいは発言をしたことは一度もない。ところが、吉本自身は、仮に竹内が中国という国家のあり方の本質をめぐり具体的な言葉にしていないとしても、実際にはそのことを確実に理解しているはずだと信じて疑わないのである。それはいったいなぜなのか。

4.幻想としての文化大革命と竹内好の「沈黙」の意味
 吉本は、中国現代史の恥部をさらけ出した文化大革命に対してそれほど関心があるわけではなく、「スターリン主義者が上演している一連の愚劇の観客の一人」という立場で十分満足していると述べている。当初、郭沫若の自己批判なるものが報道されて文芸についての理念上の内部対立のようにみえた問題が、中共における全幻想領域にわたる対立に波及していたことは間違いないのかもしれない。郭沫若の自己批判が伝えられた頃には、たしかに文化芸術の問題のように見えたものの、これを書いている1967年の時点で、吉本の眼にはすでに「文化=全幻想」領域の問題として映っていた。ただ、「たんなる観客以外の余剰があるとすれば、これらの愚劇が演出家たち、役者たちの全消滅をもって終幕となるほど徹底的であればよいという願望だけだった」と吉本は述べているが、当の本人はとうていそこまでは行くはずがなく、中ソ対立の「国内縮刷版」程度で幕が下りることになるだろうと見ていた7。吉本にとっては、それはたんに一部のジャーナリズム、あるいは中国研究者の間で、中国革命をめぐる誤った情報が中国社会をめぐる「虚像」として繰り返し撒き散らされているに過ぎなかったのである。

 「わが国にも中国文学研究家とか中国問題の専門家とか称する連中がいて、ジャーナリズムのわたしたちに提供する情報に、解説的な根拠をあたえています。しかし、わたしの眼にうつったかぎりでは、ただ他者の血であがないつつある思想的対立を喰い散らしている五月の蝿ほどの手応えしか与えてくれません。わが国ではいつも事態はおなじことです。中国文学研究家とか中国問題専門家とか称する連中の解説的な合理づけに付きあってゆくには、馬鹿気たことにだけきき入るロバの耳をもつことが必要でしょう。ちょうどわが国のベトナム反戦運動に立ちあうにはくだらぬ国際的弥次馬や国際浮浪人の素っ頓興な言動に佇ちとまらなければならないのと同様です。「文化」の領域に関するかぎりほとんどわたしたちは気のきいたことをいう白痴どもにつきあわされているようなものです」8。

 吉本の見るところ、「文化革命」とは不正確なジャーナリズムの報道とその解説によって判断するかぎりでは、「社会革命」の意味を少しももっていない。それゆえに、ここで与えうる唯一の規定は、中国共産党の政治体制を補強するための「全幻想領域の修理工作」であるに過ぎず、もっと単純化すれば、国際的・国内的緊張に促された「硬化スターリン主義者」の必死のあがきという意味しかもたない。学生や少年兵や軍隊を動かして毛沢東が強行している「革命」とは、「社会革命」の内部には滲透できないといった性格のものである。第二次大戦末期における「政治革命」が、学生や軍隊や知識人の先駆性のもとにおこなわれたのは、いわば「後進社会の必然」であった。したがって吉本は、中国共産党の自称する「コンミユーン体制」の確立などというのは「とてつもない大嘘」であると言い切ることにいっさい躊躇しない。中国で想定される「コンミューン体制」成立の唯一の基盤は、「帝力われにおいて何かあらんや」という悠久の貌(かお)をした中国大衆が激動することにあるのかもしれないが、そのような徴候は吉本にはまったく感じられなかった。仮にそのような大衆がいったん激動すれば、中共のすべての体制自体が消滅せざるを得ないことになるし、実際、毛沢東体制は文革の終焉とともに基本的には終止符を打ったのである。それゆえに吉本は「そこで中共の「文化」大革命の相貌は、頭のいいある程度近代化したスターリン官僚が、頭の悪い、だが腕力のある軍封的なスターリン官僚によって排除されるという幕切れになるでしょう」9と結論付けたのだが、同時にまた吉本は、「文化革命」にもし意義を見出したいのであれば、「竹内好のように信頼できる中国研究家がじっくりとやってみればよいとかんがえている」とも述べ、竹内に対する全幅的信頼を寄せていったのである10。

 だが、周知のように、その竹内好自身はこの文化大革命を契機に、評論活動をすべて停止するとともに、ひたすら文革については「沈黙」しただけでなく、文革が終るのをほぼ見届ける形でこの世を去っていってしまう(1977年)。吉本は竹内への長大な追悼文を寄せてその死を深く悼みつつも、「私の絶望的な中国像を打ち破るような言葉を竹内好の文章から聞くことはできなかった。むしろ彼はわが国のつまらぬ中国研究者や文学者たちを誘って、私の眼には虚像としかおもわれない中国像を流布したと思う」11と率直に記している。

 このように吉本自身は、仮に竹内が中国の虚像を「あばたもえくぼ」で言葉にしていなかったとしても、その「沈黙」そのものが何らかの意味を持つ「言葉」そのものであると最後まで信じて疑わなかった。語りえぬものについては沈黙しなければならない(ヴィトゲンシュタイン)。それは吉本がヴィトゲンシュタインと同じように、「すくなくとも<発語>危機の情況にあるときは<沈黙>もまた危機の情況にあるという意味で有意味的である」ことを理解できる数すくない思想家の一人だったからである12。つまり、中国的専制をめぐる分析について、吉本が竹内の潜在的判断力を最後まで信じていたのも、この危機における竹内の「沈黙」の意味を真に理解していたからであるといえる。

5.竹内好と吉本隆明におけるヨーロッパとアジアの位置づけ
 吉本によれば、竹内は中国とぶつかることでアジアの問題をヨーロッパとの対比で考えた。ヨーロッパとは、近代国家としても自己拡張あるいは自己保存、あるいは自己防衛、あるいは自己確立の運動である。自己を膨張させることによって自らを確立するという考え方は、ヨーロッパの合理精神や論理的精神としても、資本主義的な膨張の精神としても、あるいは植民地へと進出していく仕方としても現われている。それはヨーロッパ自身がもっている自己拡張性、あるいは自己膨張性によって自己を確認し、自己を確立していく運動の仕方であり、それ自体がヨーロッパの特徴であると竹内は考えた。

 自己膨張的な考え方、あるいは運動の仕方によって自らを確立するヨーロッパにとって、アジアはいわば不可欠な存在である。ヨーロッパにとってアジアが存在しなければ、世界史そのものは完成しない。ヨーロッパの自己拡張的運動の歴史にとって、東洋が不可欠な存在であるとすれば、東洋のあり方は、必然的に侵入するものに対して侵入されるもの、自己膨張するものに対して自己を消滅するものとしてしか存在し得なかった。世界史が世界史として存在するためには、アジアは自らを消滅させることによって世界史のなかに参加し、ヨーロッパの自己拡張にとってのいわば不可欠の犠牲によって、東洋ははじめて世界史のなかに登場したし、世界史のなかに登場する意義を持ったのである。それがアジアに対して抱いている竹内好の「ペシミズム、憤り、諦め」となっていると吉本はいう。

 ほぼ同じことを歴史観としていえば、ヨーロッパにとって東洋は不可欠なもので、東洋は東洋自体としては存在し得ないということになる。というのも、東洋的思考や東洋的自己確立として、東洋はもともと存在し得ないからである。東洋自体でさえも、つまりアジア自体でさえも、自らが自己確立するためにはヨーロッパ的方法を使うほかはない。ここではヨーロッパ自身が自らの方法によって自己確立するだけではなく、アジア自体もヨーロッパ的思考方法、あるいはヨーロッパ的運動の方法をとらなければ自己確立できないのである。このように、竹内好のアジアにたいする愛着の根底にあるのは、東洋は東洋の方法によって自らを確立できないというペシミズムである。竹内は、ヨーロッパ的思考方法のなかにある合理的精神、論理性をめぐる自己衝動、あるいはとことん自己破壊するまで推し進めるヨーロッパ的方法に対する「恐怖感」のようなものを抱いていたのだという。ところで、それに激しく抗っているように吉本の眼に映ったのが、竹内にとっての魯迅であった。

 「魯迅という文学者は、ヨーロッパ的な合理精神、あるいは論理の徹底性にたいする恐怖に精いっぱい堪えている、そういう文学者として竹内好さんに視えたのです。つまり魯迅は、じぶんが怖がっている、恐怖しているものに、同じように精いっぱい堪えているな、っていうふうに読んだのです。それが魯迅に出遇った最初の契機だったと書いています。これもまた、重要な発言だとおもいます。竹内好さんのさまざまな政治思想的な論文と学術論文と研究論文と、それから時事的な発言の表面には少しも顔を出さないけれども、独特の文体のなかからちょっとうかがえる、何ともいえないひとつの個性はそれだとおもいます。「異教的」なといいますか。日本的でないしヨーロッパ的でもない、それから中国的でもない「異教的」な孤独な影なんですが、それの核心にあるのは、たぶん、いま申しあげましたようなことだとかんがえられます。竹内好さんの生涯を貫いた核心は、そういうところにあったのではないでしょうか」13。

 吉本にとって「異教的」な存在である竹内好の考え方でいえば、日本は明治以後、東洋の国でありながらヨーロッパ的方法を身につけようと、その「自己拡張の方法」を身につけて西欧の資本主義に追いつき、その帝国主義的方法によって植民地に拡張していった。近代日本の実態とは、ヨーロッパ的な自己拡張の方法を、思考方法としても、近代国家自体の形成の過程でも、模倣することによって拡張をとげたことにある。ヨーロッパが資本として自己拡張していった果てに自己矛盾をきたしたとき、ソビエトロシアがヨーロッパ自体の胎内に産み出された。さらに、ヨーロッパ的自己拡張の方法である新大陸のアメリカが、いわばヨーロッパの胎内から産み出されて成長していった。ここでは、ヨーロッパの自己拡張する方法が停滞したときロシア革命あるいはソビエトロシアおよびその分裂のもうひとつの産物としてアメリカをヨーロッパ自体が産み出していったととらえられるのである。

6.「アジア的」なものをめぐり分岐する「社会革命」と「政治革命」
 これに対して、中国やベトナムのようなアジアの社会主義国家は、政治権力の理念が「マルクス主義」というだけであって、社会機構の面では西欧が資本主義によって達した「近代」に至っていない。いいかえれば、社会の下部構造や制度自体の構造に「アジア的」なものを残存させている国家であり、その典型ともいえる毛沢東主義とは、「アジア的」専制の理念がマルクス主義に取り替えられただけの政治体制である。吉本の見るところ、世界史の概念としての「アジア的」なものの特徴とは、きわめて貧困で非政治的な大多数の民衆と、権力を握ったごく少数の文化的な支配層・政治層の二つから成り立っている。富や権力あるいは文化は少数の専制的な政治層に集中しているものの、分配に関しては、比較的公正であることがまた「アジア的」専制の大きな特徴となっているのである。ここで「アジア的」専制の政治構造、経済構造、文化構造を残したまま、政治理念を「マルクス主義」に代えることで「社会主義」国家となりがちなのは、「アジア的」遺制が残っている国ほど「政治革命」を起こしやすかったためである。「なぜならばごく少数の政治グループだけが政治や制度に関心を持ち、その時代における世界のもっとも先進的な理念を受けいれられる一種の開明性をもっています。一方、大多数の民衆は平等に貧しく、政治に無関心で、平穏で、情緒深い。従って少数エリートの先進的な理念をストレートに受けいれ、個人の生命を無にして蜂起しうる。だから社会主義革命は後進国で実現してしまったのです」14。

 このように、西欧の民族国家が成立した近代以降、ヨーロッパが「世界普遍性」を持ち、ヨーロッパが世界であるという段階にいたる一方、アジアはヨーロッパの陰、あるいは糧に終始した。いわば、ヨーロッパ近代は「アジアを食う」ことで「世界普遍性」を獲得したのである。その段階で、日本が西欧型の近代民族革命、資本主義革命をアジアで初めて行う一方で、第二次大戦後、今度は中国がマルクス主義を理念とした独特の「アジア的」専制型社会主義革命を実現した。そこでは「政治革命」として戦後の毛沢東の中国革命の方が日本より先行したことで、中国がアジアにおける一種の「理想の範型」となった。竹内の論理では、この範型で日本の政治・文化を検討してみると、はるかに遅れているという評価しかでてこない。だが、日本が明治以降、資本主義革命と同時に近代民族国家としての下部構造をめぐる「社会革命」を始めていたのに対して、中国は「アジア的」農耕国家社会の段階で、「アジア的」部分を残したまま、独特の「政治革命」をもたらしただけにすぎないのだ、と吉本はいう。

 「社会革命」や「社会構造」だけに着目するなら、軍閥とか地方閥が群雄割拠していた状態から、いかにして近代社会として社会構成の統一性を獲得していくかが、すでに辛亥革命以降の中国の課題となっていた。いいかえれば、「政治革命」として政治制度をみた場合の先進性・後進性と、「社会革命」あるいは「社会的機構・制度」としてみた場合の先進性・後進性が、日本と中国ではまったく逆になっているということである。日本は資本主義革命には成功したが、社会主義革命には達していないから、竹内の考え方では、毛沢東中国の政治思想は日本よりはるかに進んでいることになってしまった。中国の社会主義理念、毛沢東思想のなかには、「アジア的」村落共同体の骨格が多分に残っているとはいえ、それは西欧近代の「世界普遍性」が失ったきわめて理想主義的なものとしてのアジアの「利点」や「美点」であり、かつ大きな「特色」であるとともに、大きな「欠陥」でもある。なぜこういうことになるのかといえば、竹内が「アジア」という場合、近代以降におけるヨーロッパとアジアとを対比させた概念であるととらえたところに竹内の弱点があるためである。したがって、普遍的観点で「アジア的」なものを理解するうえでの竹内との思想的立場の根本的違いについて、吉本自身は次のように述べている。

 「その観点をとるためには〈アジア〉という概念を、世界史のなかで時間概念としてとらえる必要があります。竹内さんのように、近代の西欧が普遍性を獲得して以降の〈ヨーロッパ対アジア〉という観点に限定しないで、〈アジア〉という概念を、世界の人類が普遍的に通過した、人類の歴史段階としての概念としてとらえなければならないとぼくはかんがえます」15。

 かくして、横に広がる同時代的「空間概念」ではなく、縦に伸びる世界史的「時間概念」の観点でとらえてはじめて、毛沢東の社会主義思想の二面性、すなわち「アジア的」理想郷思想と「アジア的」欠陥との二つが同時に見えてくるというのである。しかも、ここでその実像とは、大衆が個人としての自覚を持たないことで成立している。「個人が自覚をもつようになったら成立しないところに〈アジア的〉段階のユートピアがかかえている問題があるのです。後進的地域が先進的地域を鏡としてみることは確実なんですから、何年か経てば必ず、アジアでも西欧流の個人主義が普遍的にでてきます。そのときどうなるか。毛沢東思想の弱点はそこにあるとおもいます」16。

 たとえば、今後の日中間の関係でいえば、日本の保守主義者は、社会・経済構成についてなら、援助してやろうとか近代化してやろうといい気持になるといった「ミッション意識」のようなものを抱くかもしれない。しかし、政治理念に関していえば、民族国家理念しかない日本の保守主義者や国家主義者が、どう甘く見積っても中国の政治に食いこむことも覆すこともできない。なぜなら、それは竹内の指摘したように、「現在の中国の政治権力が持っている政治思想・政治理念のなかには、日本の政治権力よりはるかに開明的なところがある」からである。「マルクス主義」は、否定的表象にせよ、肯定的表象にせよ、またどんな悲惨な現実的かたちをとったとしても、世界史的視野で考えられた世界思想であって、日本の保守政治家の思想は中国の政治権力の理念よりはるかに遅れているのだ、という17。

 もし彼らなりの中国観があるとすれば、それはいうまでもなく、既述の「水槽的中国観」の一部を構成するものになるであろう。これに対して、ここでは「江湖的」中国観をあわせもつ竹内好のもう一つの側面が再評価されることとなる。まさしくこの点においてこそ、「方法としてのアジア」で竹内によって言及された、ヨーロッパの近代が生み出しながらその輝きを失わせてしまっている「普遍的価値」をアジアによって包みかえし、その輝きを再びとりもどすことが可能になるとした子安宣邦の言葉が重なってくる。竹内がいう「方法としてのアジア」とは、「アジア」が「アジア」であることによって「普遍的価値」を高めていく道なのであり、吉本も子安も、まさにこの一点において「江湖的中国観」にある竹内好を高く評価しているのである18。

7.おわりに――「江湖的中国観」の可能性を問う
 ようやくここで、先に提起しておいた郭の指摘する「本線」の中国研究者の中国観が「江湖的」なのか、それとも「水槽的」なのか、という問いに立ち返ることができる。たしかに郭は、竹内好に象徴される中国観が、じつは戦前・戦中の日本帝国期におけるアジアの秩序を正当化する一部として中国が位置づけられていたものと同じパラダイムにあることを子安の著作を通してはじめて知り、しかもそれが「江湖的中国観」とはまったく異質なものであることに気づいていった。とりわけ、竹内好、加々美光行、溝口雄三らの言説の中に、侵略戦争への内省から「親中派」の立場をとり、日本のあるべき対中姿勢の模索を目的としていることを子安の著作から正しく読み取っていたのだといえる。それは表面的に「親中派」のように見えるだけであって、その本質はむしろ戦中と同じであり、たんに中国共産党の権威主義的体制を無反省に擁護しているだけだったのである。この点において、これら3人の中国観を「水槽的」と評したこと自体にけっして誤りはない。だが、ここで加々美と溝口の依拠した竹内の思想とは、もう一人の「江湖的中国観」の立場にある吉本隆明によって批判の対象とされた竹内の言説の非本質的な部分であって、これまで見たように、このことだけで「江湖的」ではなかったと判断するには不十分であろう。残念ながら郭は、上述したような「普遍的価値」によって再びアジアにおいて世界史的アイデンティティを取り戻すための「江湖的中国観」でもあることを評価できなかった。もっとも、仮に書評であるとはいえ、「普遍的価値」についての言及そのものが、即座に劉暁波の「反体制」的言説を想起させ得ることを慎重に避けていたのだと推測することもできる。だが、このこと自体は、子安の批判の対象となった「水槽的中国観」に依拠した中国研究者らの竹内好論に対する限定的言説を通して理解されていたがゆえに、やむを得ない情況の範囲内で起きていることである。

 いずれにせよ、吉本の言説を媒介とした竹内好の中国観に対する再検討によって、「江湖的中国観」成立の一つの前提として、本稿では異教的なまでに強靭なる個の確立が条件になっていることが確認できた。なぜ本書が日本ではなく、中国で評価されたのかといえば、それは中国の一部の知識人において、この「江湖的中国観」こそ、中国の実像にもっとも近いことが広く実感として共有されているからである。とはいえ、ロシアによるウクライナ侵略という未曾有の危機において、「江湖的中国観」によって立つ中国の知識人たちがいまだに「沈黙」を強いられていることは、プーチンのそれに近似した習近平政権の対内・対外姿勢を見れば自ずと明らかであろう。あるいは郭の書評は、これまでの「沈黙」を乗り越えつつある、日中間の言論空間における新たな雪解けへの兆候を示す何らかのサインだったのかもしれない。だが、ウクライナ危機下の日中関係の現状は、再びそれを長い「沈黙」へと押し戻してしまう可能性も同時にはらんでいるといわざるを得ない。

 かつて吉本隆明は、「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている」と述べた19。この点でいえば、竹内好は本来的に「異教的」存在であるがゆえに、1949年以降の毛沢東による全体主義体制下(とりわけ文革期)において仮に「井の中」にあったとしても、戦前の中国での原体験から「井の外」に対する「虚像」をもたずにすんだ。その限りにおいて竹内は、たしかに「井の外」と着実に繋がっていたのかもしれない。だが、まさに「井の中」にある日本国内の言説空間では、「虚像」を抱く無数の「進歩的」知識人らとともに言論活動することを余儀なくされたために、竹内は一切の評論活動をやめ、「沈黙」せざるを得なくなったのだといえる。これと同じように、子安宣邦が劉暁波事件以降に直面した「関係の絶対性」という名の「沈黙」は、「井の外」に対する「虚像」を拒否することによって引き起こされた消極的結果でありながら、じつは「井の外」の「声なき声」としっかり繋がっていたことを示しているのである20。

 

1. 子安宣邦『日本人は中国をどう語ってきたか』青土社、2012年、13頁。
2. 郭穎「江湖中国观的战后缺失:一本在日本当下遭遇冷落的方法论著作」
(陳璐訳「戦後における「江湖中国観」の欠如――日本に冷遇された方法論的著作」:https://chikyuza.net/archives/118317)。この書評が実際に掲載された媒体は『解放日報』(2020年10月31日)で、「放眼“江湖”,而非置于“鱼缸”」(「金魚鉢」でなく「江湖」に眼を向けるということ」)と題されている。関連サイト(最終確認日:2022年3月31日)は以下の通り。
https://www.jfdaily.com/staticsg/res/html/journal/detail.html?date=2020-10-31&id=302709&page=10
3. 同上。
4. 吉本隆明「竹内好さん」、『吉本隆明全集』第11巻、晶文社、2015年、602頁。
5. 同「実践的矛盾について――竹内好をめぐって」、『吉本隆明全集』第9巻、晶文社、2015年、463頁。
6. 同「世界史のなかのアジア」、『吉本隆明全集』第17巻、晶文社、2018年、356頁。
7. 同「中共の『文化革命』についての書簡」、前掲『吉本隆明全集』第9巻、334頁。
8. 同上、334-335頁。
9. 同、335頁。
10. 同、336頁。
11. 吉本隆明「竹内好の死」、『吉本隆明全集』第15巻、晶文社、2018年、438頁。
12. 同「沈黙の有意味性について」、前掲『吉本隆明全集』第9巻、340頁。
13. 同「竹内好について」、前掲『吉本隆明全集』第15巻、536-537頁。
14. 同「世界史におけるアジア」、前掲『吉本隆明全集』第17巻、353頁。
15. 同上、361頁。
16. 同、362頁。
17. 同。
18. 子安宣邦『帝国か民主か――中国と東アジア問題』社会評論社、2015年、134-139頁(竹内好の原著は、武田清子編『思想史の対象と方法』創元社、1961年、237-238頁を参照)。
19.  吉本隆明『ナショナリズム』筑摩書房、1964年、49-50頁。
20. 本稿は、子安宣邦氏が主宰する「思想史講座」(2022年3月26日、於早稲田奉仕園)において報告したものである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1214:220401〕