子安宣邦 on Twitter 10月12日〜11月2日…歎異抄の近代」、清沢満之、20世紀的国家主義の亡霊、『日本人は中国をどう語ってきたか』、井上究一郎

11月2日

私は無理だと思われるような問題を自分にあてがい、走り出しながら読み、読みながら書き、書きながら問題を再発見し、再構成していく。それはしんどいが、スリルに富んだ作業である。そのようにして国家神道論も、近代の超克論も、中国論も書いてきた。今度は歎異抄論という問題を自分にあてがった。

こうして今、清沢満之に私は直面している。「歎異抄の近代」論はこれから始めるしかない。だが清沢によって何が始まったのか。近代仏教は清沢によって始まったという。では清沢によって始まった近代仏教とは何か。私は読みながら書き、書きながら読んで、一週間後にはその答えを出さねばならない。

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10月28日

原発問題を小さなことという石原にとって大なることとは何か。それは日本である。強国日本の世界的存立の主張である。この20世紀的国家主義の亡霊というべきこの野心家は、その野心によって国民を危険に落とし入れ、同時にその国民の政治的不満によって野心を育て、日本を呼号しようとする。

20世紀的国家主義者たちがじわじわと日本の権力中枢に近づきつつある。彼らとどう戦うのか。われわれは石原が小さいことというその事によって戦うべきだろう。原発とはわれわれだけではない、新たな世代の生命にかかわる問題である。原発とはわれわれの生命と生活にとって根底的な問題だ。

この時代遅れの国家主義的野心家はよくいってくれた。「原発などは小さいことだ」と。この権力的な、国家主義的野心家どもとの戦い方を教えてくれた。われわれは原発問題で戦おう。だれがわれわれの生命を守り、だれがわれわれの生命を蔑ろにするのかと。

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10月27日

『現代思想』連載の「中国論を読む」の最終回として書いた「現代中国の歴史的な弁証論—溝口雄三『方法としての中国』『中国の衝撃』を読む」掲載の11月号が、今日あたりから店頭に出る。この最終回の文章の末尾にふだん書くことのない擱筆の日付を記した。「二〇一二年九月二二日」と。

それは15回、一年余にわたる連載をやっと書き上げたことの感慨と、溝口の『中国の衝撃』論を最終回にしたこの連載の終わりが、現実の〈中国の衝撃〉と重なったことの暗合に思い入れることがあったからだ。中国観の見直さるべき時期に、中国論の読み直しをしてきたことを自ら再確認したのである。

『現代思想』連載の「中国論を読む」は、『日本人は中国をどう語ってきたか』というタイトルで、11月20日頃には単行本として青土社から刊行される。私はいま再校中である。ご期待ください。

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10月17日

金沢公子さんから父上井上究一郎氏の追悼の文章を頂いて読んだ。井上さんは若き日三好達治に師事していたこと、戦中にハノイに派遣され、戦後原爆の被災地広島に帰還して以後も詩を書き続けていたことを始めて知った。それを知ってプルーストの全訳者井上さんとの距離が一気に縮まった。

萩原朔太郎や三好らへの私なりの思い入れをもっていた。いつか彼ら詩人たちの思想史を書きたいという気持ちもあった。金沢さんにお願いして父上の遺稿詩集『水の上の落葉』を頂いた。われわれの知らなかった井上さんを思いながら遺された詩篇をしみじみと読んだ。

井上さんが戦中に派遣されたハノイで書き記された詩「友よ」から。「友よ 家郷のことに触れるな/悔悛も/秘跡も/もう考えないがいい/ 友よ 電灯の紐を引くな/転々の旅のパイプに/(過ぎた すべてが過ぎた)/この闇を点そう」記憶に留めたい詩だ。

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10月12日

「歎異抄の近代」の方法論的序章をやっと書き上げた。なぜこれが必要なのか。「歎異抄」をいえば、ひたすらその内部に読み込んでいくことへの、いわば内部性への期待が大きく存在するからだ。私の思想史は終始内部的な読みとの戦いであり、同時に私は思想史を外部的な読みを可能にする方法としてきた。

私が「歎異抄の近代」といえば、直ちに「なぜ歎異抄なのか」という問いが待ち構えている。開講前にすでにその問いは送りつけられている。これは私の問題関心への問いであるとともに、選ばれた「歎異抄」というテキストへの問いである。この問いにどのように答えるか。答えは方法論的問題である。

「なぜ歎異抄か」という問いに私は、その内的読解を導くような「歎異抄」というテキストの優越性をもっては答えない。ではどのように答えるのか。それはまさしく方法論的序章の問題である。

子安宣邦氏より許可を得て転載。

子安宣邦氏のツイート https://twitter.com/Nobukuni_Koyasu

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1063:1201105〕