子安宣邦 on Twitter 2月10日~2月25日:「歎異抄の近代」暁烏敏、濵田恂子『入門 近代日本思想史』、「排外的ナショナリズムを超克せよ」、論語と国家への忠誠意識、日本人の思考停止、犯罪的デモ

2月25日

私の「歎異抄の近代」はいま清沢満之から暁烏敏に移ろうとしている。暁烏の評伝(『暁烏敏・世と共に世を超えん』上下)を書いた松田章一は、その序章で「明治10年(1877)石川県松任市北安田町の明達寺という貧しい寺に生まれ、昭和29年(1954)8月27日に寂した暁烏の生涯は、最も平凡で典型的な日本人に一生であったが、また、最も非凡で孤高を行く一生でもあった」といっている。松田は簡単には統一しがたい二つの評価をもって暁烏をいう。それがタイトルの「世と共に世を超えん」ことを意味するのか、どうか。暁烏は平凡な日本人で、非凡な伝道師ということか。

暁烏を良く知るものによって、「平凡」でかつ「非凡」と矛盾する評価をもっていわれる暁烏とは何ものなのか。松田の書く評伝の上巻を読み終えたばかりの私にまだその答えはないが、清沢を師とも父とも仰ぎ続け、師亡きあと「精神界」を守り続けた暁烏は、しかし清沢とは違うと思わざるをえなかった。

清沢が最も愛した弟子である暁烏は、師の信仰的立場を継承しながら、しかしその信仰的生のあり方は違うと思わざるをえない。清沢にとって我とともに真宗的宗教世界があるが、暁烏にはさらに日本がある。暁烏には終始日本国家がある。これは文久3年生の清沢と明治10年生の暁烏の違いかもしれない。

暁烏の生年(1877)に近いのは、高山樗牛・幸徳秋水(1871)、綱島梁川・津田左右吉(1873)、柳田国男(1875)、島木赤彦(1876)、波多野精一(1877)、河上肇(1879)など。日本帝国と共に生まれてきたものの負わざるをえない宿命と苦悩とがここに見えるようだ。

暁烏が何ものかを語るにはまだ早すぎる。松田の評伝・上巻を読んで、師清沢とは違う暁烏の他力信仰者としての生のあり方に驚き、その生を日露戦争とその戦後的日本社会に置いて考えようとし始めたばかりである。「平凡」で「非凡」な暁烏とは何ものか。思想史家としての私の技量が問われる課題である。

松田の評伝『暁烏敏・世と共に世を超えん』下巻、昭和29年、78歳の死に至る暁烏の後半生の評伝を読み終えて、呆然とした。こんな桁外れの怪僧について何か書けるか。昨日、「思想史家としての私の技量が問われる」などといったのはまったく失言であったと後悔したりした。

暁烏の最後の遺著というべき『世と共に世を超えん』(1954)の頁を繰りながら暁烏という人間を考えた。やはり彼は20世紀の全体主義的時代の特性を十分にもった宗教家(伝道師)ではないのか。その圧倒的な言説的な行動性、改革的志向、ロマンチシズム、ポピュリズムなどなど。

暁烏の言説を昭和日本の全体主義的な宗教的伝道家の言説たらしめているのは、それが東洋・日本の内部から、すなわち聖徳太子という仏教・儒教・天皇神道・親鸞の結節点から語り出されるところにある。ところで私の問題とはこの暁烏における歎異抄である。

歎異抄は明治末年の日本の「精神界」の読者たちに若き暁烏によって語り出されていったのである。清沢は己の中に歎異抄をもっていても、それを語り出すことはなかった。歎異抄は暁烏の語り出しによって明治の宗教青年に手渡されていったのだ。暁烏もそれを語ることで近代の伝道師になっていった。

2月23日

濵田恂子さんの『近・現代日本哲学思想史—明治以来、日本人は何をどのように考えて考えて来たか』(関東学院大学出版会、2006)は、明治から平成の現在にいたる日本の哲学思想を偏ることなく、的確に記述した、これ以降も書かれることのない力作だと思ってきた。これが文庫化された。

『入門 近代日本思想史』(ちくま学芸文庫)がそれだ。これは「入門」となっているが、本物の「近代日本哲学思想史」である。濵田さんの力作が文庫化され、一般読者に提供されたことを喜びたい。それとともにこうした力作を文庫化し、刊行する編集者の見識を称えたい。

2月21日

私のインタビュー記事「排外的ナショナリズムを超克せよ」が載る「月刊日本」3月号が出た。私の書くものを日頃敬遠している家内が、「これは読める」といって賞めてくれた。「週刊金曜日」の編集者からも「感銘を受けた」とのメールをもらった。というわけなので、ぜひお読み下さい。

2月20日

「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば見(あらわ)れ、道無ければ隠る。(危ない国に立ち入るべきではない。乱れた国に居続けるべきではない。天下に道有るときは進んで世に現れ、天下に道無きときは身を隠すべきである。」これは論語・泰伯篇にある孔子の言葉である。

すでに何度か引いた「道行われず、桴に乗りて海に浮かばん」(公冶長)という言葉と共に泰伯篇の言葉は、孔子が国あるいは人君に、われわれに於けるとは異質な仕え方をしていることを伝えている。乱れた危うい国にあえて身を挺して仕えたりすべきでない。身を隠すのが正しいあり方だというのだ。

孔子がのべている出処進退のあり方は、中国古代の士大夫としてのものであり、孔子自身が諸国を巡遊し道を説くものであったことは考えねばならない。だが同時に「君、君たらざれば、臣は去る」ことが君臣の義に立つ中国の儒家的臣の正しいあり方であったことをも考えねばならない。

君臣の絶対的な忠誠関係を歴史的な遺伝子として受け継いでいるわれわれは、論語における孔子の「道に忠誠であっても、人君に忠誠であるわけではない」という当たり前の言葉に接して違和感を覚えたりする。ひるがえって考えれば、われわれにおける君臣の絶対的忠誠関係が異質なのではないか。

絶対的な忠誠関係としての君臣関係とは武士社会の主従関係によって作り出されたものだ。武士が支配階級となる江戸時代にいたって主従の忠誠的エートスは社会の末端まで浸透していった。そして近代の天皇制国家が天皇(皇国)ー臣民関係に主従の忠誠関係を移し植えたのである。

私がいま歴史を振り返ってこんなことをいうのは、孔子の「道行われず、桴に乗りて海に浮かばん」に違和感を覚えるわれわれの方がおかしいのではないかと思ってである。われわれにおける国家への忠誠意識(帰属意識)が絶対的すぎるのではないか。武士社会の遺伝子をもちすぎているのではないか。

私は初め国への帰属意識の違いを思った。だがやがて我々における国家への帰属意識が異様である、例外的だと思うようになった。日本人というアイデンティティーを失ったら、何者でもなくなるように我々は仕向けられているのではないか。孔子なら「人はまず道を行う君子たれ」というだろう。

2月17日

先日、『月刊日本』のインタビューがあった。その編集者を私に紹介してきたのは『週刊金曜日』であった。ここにはもう左とか右とかいえない言論の複雑に交錯した状況があるのだが、「私たちは右といわれていますが」と断りながらなされたインタビューの実際は、やがて出る同誌3月号を見て頂きたい。

そのインタビューの最後に私がいったことをここにも引いておきたい。 なぜ「未来志向」とか「戦略的互恵関係」という過去の反省を伏せ、本当の隣人関係を作ることとは遠い、利益志向的な虚偽の言葉をもってしか語らないのか。そこから信頼関係が生まれることは決してない。信頼とはその人の本当の言葉から生まれるのである。言葉の中に、われわれ人間の歴史も、文化も、生活も記憶されている。漢字文化圏のわれわれは「信」という漢字をもってきた。人と言とからなるこの「信」という漢字は、人の言葉の真実が、その人を信用、信頼することの基であることを教えてきた。

われわれの度重なる謝罪の言葉が相手に信用されないのは、それが本当の言葉ではなかったからだ。「信」という漢字を共有するわれわれはいまこそ隣人的信頼関係を作るための本当の言葉を語るべきだ。「アジアの平和」は偽りの言葉からは生まれない。

2月16日

講座などを終え、この数日の新聞をまとめて読んだ。朝日14日オピニオンの憲法学者長谷部恭男の「憲法、アメリカ、集団的自衛権」は貴重だ。多くのことを教えられた。「集団的自衛権」をめぐる憲法解釈の変更論、憲法改正論に、「日本の平和と安全のためになるか」と重要な釘をさしている。

朝日15日オピニオンの「変われぬ大国としてのイタリアと日本」の対比論も面白い。建築家グラッセッリ氏はいっている。「このまま「空気を読む」ことばかり一生懸命にになって、「見ざる言わざる聞かざる」を続ければ日本はどんどんダメになる。勇気をもって異論を唱えなければ。

「ワーワー騒ぐばかりのイタリア人を「空回り型バカ」と呼ぶなら、日本人は「思考停止型バカ」だと思います。」この結論に先だって、TPPについて氏は、「競争が激しくなり、格差はさらに広がるでしょう。日本が危険なゲームに加わろうとしているように見えます」と警告している。

2月11日

われわれはいま戦後日本の歴史的なツケを払わねばならない時と処にいるのだ。安倍は「未来志向」とか、「戦略的互恵関係」をいうが、それは道義的関係の構築を頬被りして、ただ経済的関係の再興をいうことで、だれがそんな言葉を信用するだろうか。信頼のないところに〈領土〉問題の解決などはない。

2月10日

2月11日にちなんで、「日本を強くする」という安倍の主張をめぐって書こうとしてPCを開いたら、新大久保で行われた醜悪なデモをめぐるツイッターに直面した。われわれ日本人の心をも凍らせるような言葉が叫ばれていたという。これは国際的に許されない反人権的、人種差別的な犯罪的デモである。

この犯罪的なデモが堂々と、警視庁の許可をえて東京の街頭で行われるのがアナクロ的国家主義者安倍政権の成立した日本の首都のあり方である。安倍は己れの本音を懸命に隠しながら、しかし彼の支持者たちは堂々とその本音を東京の街路上で叫んでいるのだ。恐いなぁー。これは本当に恐いことだ。

安倍の「日本を強くする」という独善的な一国的強化の主張は戦後の〈歴史認識〉に対する批判から形成された。安倍は反〈歴史認識〉的な歴史認識に立っている。戦後の〈歴史認識〉は戦前の軍国主義日本との連続性を基本的に否定する。それはアジアとの関係においても戦前的関係を否定する。

戦前日本との不連続に立つ戦後的〈歴史認識〉は、戦後50年を迎える頃から自虐史観という批判を受けるようになる。この批判者に成立するのが戦前日本との、いや神代日本との連続性に立った〈日本〉の歴史認識である。安倍とはこの連続的〈日本〉の歴史認識の共有者、強力な政治的な代弁者である。

だから私は安倍の〈日本を強くする〉という主張を本質的にアナクロニズムだというのだ。戦前日本どころか神代日本からの連続性をいう歴史教科書の強力な推進者である男が21世紀日本の首相になったことは世界史的なスキャンダルである。日本人はそう思わなくとも、世界はそう見ているはずだ。

なぜなのか、なぜ連続的〈日本〉の主張者が21世紀日本の首相であるのか。このことの反省はわれわれを日本の戦争の終え方に連れ戻す。われわれは本当に戦争を終えたのか、もし終えたというのならいかなる戦争を終えたのか。同じ敗戦国のドイツの終え方は、たえず引き合いに出されるが、重要である。

ドイツでは戦前的なナチ的国家体制の復活は国家の基本法として許さない。ナチズムは憲法的に禁止されている。だから戦後日本の国会に「靖国神社国家護持」法案が再三再四上程されるといったことはないし、戦前日本との連続性をいい、〈日本を強くする〉ことを正面に掲げる男が首相になることはない

日本の戦争の終え方をめぐって私が本当にいいたいことは、日本はアジアにおける戦争を本当に終えたかということである。中国との戦争を本当に終えたのか。朝鮮との関係にはっきりとした終止符を打ったのか。日本はただ政治的な終止符を打ったのである。道義的な終わりをつけようとしたのではない。

周恩来との会談で田中は日本の戦争責任を詫び、「ご迷惑をかけた」といった。周がそれは謝罪ではないと咎めたが、田中は誠心誠意の謝罪だと弁明したという(矢吹『尖閣問題の核心』)。日本語の常識から、これは単なるお詫びの挨拶だ。田中に道義的に戦争事態を終え、その責任をとる気はなかったのだ。

韓国との関係も同様である。だからいつまでも日本の〈歴史認識〉が問われ続けるのだ。このことは戦後日本が一貫して、隣国中国や韓国との関係を基礎に東アジアの平和を築くことをしてこなかったことに深く関わっている。中国・韓国との間で恢復された関係とは経済的関係であって、隣人関係ではない。

子安宣邦氏より許可を得て転載。

子安宣邦氏のツイート https://twitter.com/Nobukuni_Koyasu

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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