9月30日
「過ちては改むるに憚ること勿かれ。」世界中から指弾されない中に、早々に改めることだ。野田のしたことは中国だけではない、国際的状況を見誤った行為だ。われわれの生活を不安定にさせた罪は大きい。
〈中国の衝撃〉をもろに感じさせられていたその時期に、溝口の『中国の衝撃』を読み終え、私の2年越しの「中国論を読む」作業も終わった。こういう終わり方になるとは予想もしていなかった。この〈衝撃〉的な終わりは、これまでの見方の終わりとともに、いかなる中国像の転換をいうものか。
中国は40年前、国交回復時の中国でなければ、10年前の中国でもない。尖閣を国家の核心的問題とした中国を野田たちは見誤っている。日米関係を再構築すればどうにかなるという問題ではないのだが、・・・
私はこんな大問題を論じようとして書き始めたのではない。「中国論を読む」の終了をいう言葉が自ずからそこへ行ってしまったのである。ともあれ「中国論を読む」は終えたので、次へ転じようと思っている。転じる先は歎異抄である。
歎異抄といっても、それを読むわけでも、また親鸞を論じようとするわけでもない。歎異抄を契機として己れの〈信〉を自覚する近代日本知識人の〈信〉の構造を考えてみたいのである。清沢満之・暁烏敏・倉田百三・三木清・野間宏・吉本隆明と並べていけば思想史的問題としての重要性は了解されよう。
「歎異抄の近代」を主題として昭和思想史研究会を毎月第2土曜日に早稲田で開催します。第1回研究会は10月13日(土)13:00〜16:30、早稲田大14号館1054教室、講座「なぜ「歎異抄の近代」か」子安、緊急報告「尖閣/釣魚島、リァンクール礁(竹島/独島)問題を中心に」長谷川。
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9月22日
昨日の朝日報道によれば、北京市当局は日本関係書籍の出版を規制する指示を出したという。これが本当に実施されたら、進行中の私の著書の翻訳出版も頓挫することになる。しかしこうした全体主義的思想統制までして貫こうとする尖閣の領土問題化の、中国にとっての国家戦略的な重要性が浮かび出る。
しかし国内的な思想・言論統制をしてなされるこの対外的な国家戦略はきわめて危なっかしい。内外の危険に満ちている。しかも権力中心の交代期である。私は息をつめるようにして推移を見つめている。
「東洋経済」の特集「中国炎上」は中国の現状・将来への肯定・否定の評論・レポートを載せていて面白い。肯定論の一つ、胡鞍鋼清華大教授は2030年に中国など南方国家(途上国)の世界のGDP比率が北方国家(先進国)を確実に超え、逆転が鮮明になるとし、これを「共同富裕」実現の過程という。
胡教授はこれを「全世界の人民が共同富裕を実現するプロセスだ」という。「まさに天下の富を等しく分け合うという、中国古来の大同思想を実現するもの。中国指導部が提唱する和諧社会の理念とも重なる」という。溝口が中国前近代から呼び出した〈大同思想〉が虚偽的イデオロギーを再生産する。
溝口は中国の独自的(反西欧的)な〈社会主義〉を肯定するものとして歴史から〈大同思想〉を呼び出した。これは〈民主・自由〉の市民的要求を私的として圧殺し、全体的な富裕化を〈社会主義〉の前進として肯定するイデオロギーだ。今、中国の将来を彩る虚偽的イデオロギーとして再生産される。
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9月18日
中国の反日デモを見続けている。昨日は100都市でデモが行われたという。デモの暴徒化を抑え込みながら、毛沢東の肖像を掲げる集団をも含んで、反日デモは中国政府の意思表示として行われた。民衆の愛国主義を誘発しながらも、その暴発を極力抑えてなされた中国の国家的意思表示であろう。
これは沈静化をまつ一時的な事態ではない。尖閣問題とは、東アジアの歴史的転換をわれわれに実地教育的に突きつけている問題であるようだ。小泉の靖国参拝は中国の反日運動に火を点けたが、尖閣の国有化が中国に与えた衝撃は質も程度も違う。それは中国の中華主義的国家の存立に衝撃を与えたのだ。
中華主義的国家とは歴史的には〈中華帝国〉である。私は現代中国はチベットやウィグルなどの民族問題や領土問題をめぐって中華主義的国家(中華帝国)としてのあり方を色濃くしていると思っている。尖閣問題は、たしかに中華主義的国家についての実地教育である。
尖閣問題が日中国交正常化40周年に生起したことは歴史の皮肉だ。尖閣問題は、日本の〈政・官・財〉がひたすら努めてきた〈日中友好〉の名の国家間関係の偽瞞と脆さを暴き出してしまったではないか。だが中国の人々との本当の隣人関係はむしろここから、この壊れた関係から作られると私は信じたい。
われわれにできることは、中国の公民的要求をもった運動に連帯し、支援し、共闘することだろう。これが本当の市民的友好であって、そしてこれが領土をめぐる帝国的確執を破り、こえるものだと思う。
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9月12日
中国で「愛国無罪」をいうことで反日デモは正当性をえ、厳しい取り締まりを免れるという。中国で〈反日〉が〈環境問題〉とともに、市民が集団的に声をあげることのできる政治的イッシュであるという事情については別に考えたい。いまは「愛国無罪」というナショナリズムの論理について考える。
「愛国無罪」とは、中国のように集団的に叫ばれることがなくとも、日本の、あるいは韓国のナショナリストももつ感情の論理である。この「愛国無罪」という標語の恐ろしさは、その反対側に「反愛国=有罪」をもっていることにある。「愛国無罪」の愛国主義に反対することを有罪にしてしまう所にある。
はるか海洋の島をめぐって「この島はオレのものだ」ということは、どちらがいおうと帝国的な領有の主張である。愛国主義はこのオレの立場を絶対化するだけである。この愛国主義は日本を、中国を危うくし、アジアを危うくする。愛国主義は無罪であるどころか、有罪ではないか。
子安宣邦氏より許可を得て転載。
子安宣邦氏のツイート https://twitter.com/Nobukuni_Koyasu
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1021:1201004〕