12月3日
7時のニュースを見ていたら、石破がはっきりといっていた。「海外に向けては軍隊だといい、国民に向けては自衛隊であって軍隊ではないという。こういうマヤカシはもう止めねばならない」と。解釈改憲というマヤカシをやってきたのは自民党である。石破はそのマヤカシはもうしないというのだ。
軍隊を自衛隊だというようなマヤカシをもうしないということは、日本を日米軍事同盟の一方をになう正真正銘の軍事国家としてその正体を明らかにしていくことだ。われわれがこの選挙と選挙後に何と戦わねばならないかを石破は教えてくれているのだ。ではだれが、どのようにしてこれと戦うのか。
9条の会か。しかし解釈改憲的な自衛隊的体制がマヤカシなら、その体制を平和憲法的体制として護持してきた9条の会もマヤカシではないのか。これをマヤカシとして改憲をいうものに、改憲反対をいうことは、マヤカシを護持することではないか。私はあえていっている。9条の会では戦えないからだ。
敵の方が先に行っている。そしてナショナリズムを強め合う東アジアの国際環境は敵に有利である。とすればわれわれはそこで戦うべきではないか。日本をホンモノの軍事国家にすることは、東アジアに〈アメリカの平和〉を確立することであっても、〈アジアの平和〉を確立することではないのではないか。
〈アジアの平和〉をわれわれは中国・韓国とともにどのように確立するのか。日本の将来像とともにそのことを問いながら、われわれは戦うべきではないか。9条の会のマヤカシ性を見透かしたように、敵はすでにずうっと先を行っていることを知るべきだろう。
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11月28日
「現代思想」に連載してきた「中国論を読む」を一冊にまとめた『日本人は中国をどう語ってきたか』が青土社より刊行され、一両日中に店頭に並びます。その本の帯に書かれたコピーを借りて、本書の内容紹介をしておきます。
「北一輝、内藤湖南から橘樸、尾崎秀実、竹内好、溝口雄三まで、明治末から戦争の時代をへて現代に至る代表的な中国論を精緻に検証。アジア主義、東亜協同体論、毛沢東主義、文革、改革開放などさまざまな時代状況と論点を掘り下げ、来るべき日中相互の対話と理解のための試金石とする思想史的読解」
清沢満之の精神主義との苦闘の毎日が続いている。行き詰まった時は寝てしまう。そして朝4時ごろから寝床で脳中のもやもやの謎を解くように考える。謎が解けたと思ったときは、すっきりした気分で起き上がる。今朝はそうだったのだが、果たして本当に謎が解けたのか。書いてみなければ分からない。
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11月21日
清沢たちの「精神界」の創刊時のものを見たいと思い、国会図書館へ行った。なぜか「本日休館」。仕方なく半蔵門まで歩いて、喫茶店で脇本平也の『評伝清沢満之』を2時間ほど読む。帰りに町田の高原書店に行ったら、これも定休日。また喫茶店で『評伝』の残りを読む。おかげで一冊読み上げた。
考えてみれば21世紀的な「靖国問題」とは小泉の靖国参拝から起こり、それが中国の反日的愛国教育を生み、その結果は現在の『領土問題」に及んでいるのだから、「靖国問題」は21世紀的東アジアの問題として考え直すべきなのだ。ともあれ12月8日6時半から大阪天満橋「エル大阪」709室で。
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11月18日
12月8日に講演話を依頼されたこともあって「靖国問題」を再び考えている。これが現実に再登場するのも間もなくである。20世紀的な「歴史問題」が21世紀的な問題としてもってくる位相を明らかにする必要がある。それは「領土問題」と同様である。
考えてみれば21世紀的な「靖国問題」とは小泉の靖国参拝から起こり、それが中国の反日的愛国教育を生み、その結果は現在の「領土問題」に及んでいるのだから、「靖国問題」は21世紀的東アジアの問題として考え直すべきなのだ。ともあれ12月8日6時半から大阪天満橋「エル大阪」709室で。
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11月16日
ツェリン・オーセル、王力雄夫妻の『チベットの秘密』が刊行された(劉燕子訳、集広舎)。「チベット人は末日の中で暮らしていながら、それを知らず、末日を末日とも思いません。それは自分自身が常に既に末日の一部になってしまったからです!」とオーセルは書いている。
あなたは知っているか、権力闘争を内に隠して荘厳に専制権力相続の儀式を世界の注目を集めて行った共産党国家・中国はチベットの人々を末日の中に置いていることを。その共産党大会に抗議するように、チベットの人々の焼身自殺はこの10月以来20人にのぼっていることを(朝日・13日)
チベットで人々はチベット人であることを否定される。これは「チベットの秘密」である。だがこれは同時に「中国の秘密」である。チベット人、ウィグル人であろうとすることを分離主義として弾圧する中国は、そのことで中華民族主義的統一を確保し、中華帝国となる。これは「中華帝国の秘密」だ。
『チベットの秘密』に載る王力雄氏の「チベット独立へのロードマップ」は、いま「領土問題」と「反日暴動」を通じて「大国中国」とは何かを問い直そうとしているものにとって必読の文章である。
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11月10日
滅多にない爽やかな秋の空気の中を朝のウオーキングをした。多摩川の流れと河川敷の草や木々。ここだけは僅かに自然をとどめているようだ。だが違う。ここにはかつていた生き物がいない。足下から飛び立ったバッタはいない。蝶もいない。従って小鳥もいない。いるのは烏と鳩と捨てられた猫たち。
いつも変わらないように見える多摩川の河川敷を歩きながら私は妙な気分になる。あの草はない、あの花はない、あの虫はいない、あの鳥はいない、そして川の中にはあの魚もいないのだろう。ないない尽くしの多摩川の河原をあたかも自然のごとくにして私は毎朝歩いている。
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11月8日
多くの近代日本の知識人は親鸞あるいは歎異抄を介して己の〈信〉を問うている。私はこれを「親鸞問題」という思想史的問題として構成しようとしている。吉本隆明の『最後の親鸞』も、現代の近い時期における代表的な「親鸞問題」だと私は考えている。
吉本の『最後の親鸞』が「親鸞問題」だということは、そこでは親鸞あるいは歎異抄を介して吉本の〈信〉が究極的には問われていると考えるからだ。ところで私はいま清沢満之にこの「親鸞問題」の近代における始まりを見ようとしている。私は清沢論を今村仁司の『清沢満之と哲学』から始めた。
今村は清沢を「親鸞問題」としては見ない。むしろ彼は私が構成するような近代の「親鸞問題」を否定する。「親鸞と歎異抄を介して己の〈信〉を問う」という「親鸞問題」の構成を間違った問題構成だとする。
今村は親鸞を『歎異抄』に見るべきではなく、『教行信証』に見るべきだという。同様に清沢満之の本領は『宗教哲学骸骨』にあることをいう。彼は「最初の清沢』によって「最後の清沢」まで読み切ってしまおうとするようだ。今村は吉本の『最後の親鸞』に反対なのである。
吉本は「最後の親鸞」の〈非知〉としての〈信〉を読み出していく。だが今村は「最初の清沢」の〈信知・智慧)としての〈信〉で「最後の清沢」まで読み切ろうとする。この今村清沢論を見ることによって、彼の議論に違和するところに、かえってわれわれの清沢を見出すことになるのである。
われわれは今村の議論の空白に、あるいはその挫折に、彼が斥けた「親鸞問題」を見出すのである。今村のいう〈信知〉に違和するものとして清沢の〈信〉をわれわれは見出すのだ。
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子安宣邦氏より許可を得て転載。
子安宣邦氏のツイート https://twitter.com/Nobukuni_Koyasu
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1095:1201204〕