1990年代を通じて、フェティシズム研究の一助としてフレイザー『金枝篇』に関心を持ってきた私は、2004年から『金枝篇』(全8巻+別巻の完結版、のちに全10巻に変更、国書刊行会)の監修に着手した。以下に序文を引用することによって、監修の意図を記そう。
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フレイザー『金枝篇』日本語版監修者序文
ヨーロッパの思想風土に発する近代合理主義の立場からみると、非ヨーロッパ社会や前近代の社会、そしてそこに生活する人びとの慣習、風俗には、とうてい理解しがたいものが多々見受けられる。ややもすると、野蛮とか未開などと形容して拒絶する以外に対応しきれないものもある。そうした事例は、特に宗教的というか儀礼的な生活において観察される。その一つに、非ヨーロッパ各地の民族誌・民俗誌に記されている神殺し・王殺しのフォークローアがある。あるいは神獣食習・神人食習のカニバリズムがある。
しかしながら、そのような「蛮習」は、実はヨーロッパの「文明民族」にもかつて存在していた。好例として、例えばスイスはレッチェンタールの『チェゲッタ』がある。秋田に伝わるナマハゲに酷似したこのカーニバルは、ヨーロッパにキリスト教が浸透する以前のケルト系先住民の野生的儀礼の遺風である。以上のような先史から現代に伝わる様々な儀礼を古今東西にわたって蒐集した文献として、フレイザーの本書『金枝篇』がある。ただし、本書に読まれる事例ではみな、神となった人(人神)や人となった神(神人)を、殺すために殺すのでなく、生かすために殺すのであり、別のいっそう若々しい肉体におけるよりいっそう強大な神霊の再生・復活を願ってこれを食べたり殺したりするのである。
本書に収録された民俗誌の豊富な事例群は、衣食住をととのえてその日を生き抜く視座と方法を獲得するべく行動する野生的な人々と、彼らの儀礼生活に関連する。そのような習俗は、近代合理主義では説明がつかない。これは例えば天動説と地動説の相違と似ている。すなわち、我々は現在のところ理性知の立場、科学知の視座から地動説を認めつつも、実際には生活知や身体知の視座から天動説にしたがって生活している。頭脳は地動説を承認するものの、身体は天動説を心地よく受け入れる。フレイザーがあつめた民俗誌は、いわば天動説=身体知のパラダイムにあるのである。地動説すなわち科学知からはとうてい承認しがたいものの、現代人は、日常生活ではすっかり天動説すなわち身体知に依拠して生活しているのである。そうしたパラドキシカルな人間精神を理解するのに、本書は第一の裨益となるものである。
本書は、けっして前近代を素材にした風物詩や博物誌のたぐいではない。身体知(天動説)と科学知(地動説)を総合する知、人類史の21世紀的未来を切り拓く知、監修者なりの表現をとれば、歴史知を探究するためのテキストなのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study533:120716〕