学問の道を歩む―7―

 ある会議に出席するため、2005年5月7日に千代田区神田に出向いた折、少々早く着いたので、久しぶりに古書店をめぐってみた。洋書の崇文荘書店で、偶然にもアーノルド・トインビー『歴史の研究』全12巻を目にした。揃いで55000円、直ちに購入した。数日後、研究室に郵送されてきたうちの第1巻を開いて驚いた。その原書の最初の所有者がかつて近衛文麿内閣の閣僚で、逓信大臣、鉄道大臣を歴任した村田省蔵だったらしいのである。A Study of History 12vols は1934年から61年にかけてロンドンで刊行された。村田省蔵はそのうち既刊の6巻(7巻以後は戦後の刊行)を少なくとも1945年までにはセットで購入し、戦犯として巣鴨プリズンに投獄されたとき、これを獄中で一部なりとも読んだようである。

 その原書を戦後になって第二の所有者(氏名が記されているのだが、達筆で正確には判読できない、「加藤云々」と読めなくもない)が村田から直接贈られた。あるいは、もしかすると遺贈されたのかもしれない。その経緯を簡単なメモにして扉裏に記しておいたのである。最後に「合掌」とあるので、このメモを書いたとき、すでに村田は死去していたのであろう。トインビー死亡(1975年)の日本語新聞記事などが原書に挟めてあるので、第二の所有者は原書を大切に保管した模様である。その第二の所有者が晩年か死後に手放したものが、崇文荘の店頭に並んだのだろう。この段階で崇文荘は、戦後に刊行された部分(7~12巻)を補って、全巻セットで販売していたのである。

 なお、村田はフィリピンにおける日本軍の横暴ぶりを批判していたらしい。『レイテに沈んだ大東亜共栄圏』(NHK取材班著)には次の記述がある。フィリピンを占領していた日本軍について、「彼らの多くは視野概して己の周辺を出でず、治安の維持に急して民衆の福祉に疎(うと)く、自己の功を挙ぐるに専(もっぱら)にして他の迷惑を顧みるに遑(いとま)なく、風俗を無視して習慣を重んじず、常に征服者の態度を以って民衆に臨」んでいる。そのような健全な感性をもっていた村田であるから、戦犯として巣鴨プリズンへの投獄を余儀なくされたとき、彼がトインビーのA Study of Historyを獄中で読みだした気持ちがわかる気がする。

 ところで、トインビー『歴史の研究』の原書は全12巻であるが、その邦訳は全25巻からなる。その邦訳を企てた監修者、松永安左ヱ門(1885~1971)は、経済界(電力関連)の実力者であった。彼は村田が参画した内閣首班だった近衛文麿と親しく交流したが、産業界で頻繁に行なわれていた談合などの不正は断固拒否の志操堅固で知られ、また第二次世界大戦中は反戦でとおした。軍国化がすすむ昭和10年代、電力国家管理法が成立すると自由主義の立場からこれに反対したが、青年将校らに狙われ、あるときはピストルを懐にいれた若い官僚に脅かされる。それでも反戦を貫くため、1941年12月日米開戦と同時に、すべての職を辞し隠居する。そのおかげで、戦後、多くの有力者が戦犯で公職追放となったおり、しかたなく一時政界に入ったが、石橋湛山らハト派に協力し、岸信介らタカ派とやりあった。それ以外はおおむね経済人で通している。その松永が、禅の鈴木大拙から懇願されて最晩年に取り組んだのがトインビー『歴史の研究』全訳監修であった。トインビー自身も、渡英した松永と親交を重ね、むろん翻訳をも快諾している。5月には、トインビーの原書全巻のみならず翻訳全巻をも古書店から購入してみて、村田省蔵のことや松永安左ヱ門のことなど、いろいろ勉強になった。

 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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