百年の計とも言われ、何ごとも慎重であるべき教育の世界で、教育行政の幼児化がひどい。以下、高校授業料無償化の見直し、教育委員会による教科書採択妨害、民間出身校長の不祥事の三点を取り上げる。
「財政には所得の再分配機能がある」とは、中学校の教科書にも書かれている。この箇所を学習していて、「高級衣料品は高い税率とし、その税収を労働者の作業服などの補助金に回す」というアイデアを出す生徒がいたら、教師は一度は褒めたうえで、「消費財単位の政策は合理的ではありません。財政とはそのようなレベルで考えるものではありません」と説明することになろうか。そもそも、優秀な生徒はそのような具体性に拘った発想はしないものだ。
ところが第二次安倍政権の文部科学相は、それをやってのけようとしている。授業料無償化法を破棄して、一定額以上の所得がある世帯の生徒から授業料を徴収し、その収入は私立学校に通学している低所得世帯の生徒の授業料負担補助に充てるというのである。
入試の失敗などにより、低所得世帯の子どもが授業料の高い私立高校に入らざるをえないケースはある。そのような生徒が安心して学習できるようにしたいのであれば、該当する生徒人数分の補助金を私学助成金に加えて支給すればよい。事務作業量もそれほどの負担ではないだろう。必要な予算は、自公政権が引き下げてきた富裕層の最高税率などを見直せばよいだろう。
文科相の案を実行に移すためには、公立高校をもつ全国の自治体に、一度廃止した授業料徴収の条例を再度制定させ、授業料徴収の仕組みや人員配置を復活させる必要がある。教室ではすべての生徒の保護者から所得証明の提出を求め、審査の作業が必要になる。費用対効果の点からもまったく無駄である。
文科省内部や知事会などから、来春の実施は時間的にも難しいとの指摘がなされたにも関わらず、文科相の強い指示によって来年度の導入を目指すことになったという。「政治主導」の矮小な仕事を押し付けられる官僚や地方教育行政関係者さらに学校の教職員たちにとっては、いい迷惑だろう。
中央の幼児化が進めば地方も倣う。いくつかの教育委員会が、特定の日本史の高校教科書を採択しないようとの指示を出した。その教科書には「一部の自治体で公務員への(国旗掲揚・国歌斉唱)強制の動きがある」という記述があって問題視したのだという。この「公務員」とは、各地で卒業式などの日の丸・君が代を強制されている公立学校教員を指している。
強制問題については、式典での起立を拒んだ教員に対する減給・停職の処分が不当であるとする訴えに対して最高裁が、処分が重すぎて違法であるとし、教育委員会にある程度の自制を求める判決を出している。
教育委員会が「気に障る」一カ所の記述に目くじらを立て、教科書採択を妨害するのは「腹いせ」以外の何ものでもない。「思わぬ不結果に、我慢できない自分の気持ちを発散させるために、迷惑が及ぶような行為をわざと他に向け仕向けること」が『新明解国語辞典』の「腹いせ」の説明である。自分の気持ちを「我慢できない」のは幼児性の特徴である。
大阪府では2002年に最初の民間出身校長(教員免許をもたない校長)を高校に配属したが、教職員を怒鳴り散らすばかりで、学校運営は空転し任期を一年残して退職している。最近では全国的にも民間出身校長の採用は下火になっていたのだが、大阪市では橋下市長の意向(大阪市立学校活性化条例)を受けて今春、多数の民間出身者を校長に任命した。来年度は新たに任命する校長の半数程度を民間出身者とする予定だという。
多数の民間出身者をパラシュート隊員のように学校に配置すれば、学校にどのようなことが起きるか。教頭に昇進して最終的に校長職に就くというのが教員キャリアの典型である。校長の椅子を民間出身者に取られてしまえば、教員は教頭になっても校長になるチャンスが狭まる。しかも上司である校長が民間出身であれば、書類の作り方(校長は教育職ではなく行政職である)ひとつ分からず、学校運営の実務は教頭の一身に集中することになる。かつて広島県では、銀行員から転職した小学校長の下で二人の教頭が脳溢血などで相次いで倒れ、校長本人も一年余りで自殺してしまうという悲惨な出来事があった。教頭のなり手が少なくなるのは当然である。大阪市では、すでに教頭候補者が足りなくなっているという。教頭以下、一般教員の士気も下がる一方である。
その校長が斬新なアイデアをもって教育現場を活性化するのであれば、多少の混乱は過渡期の現象として大目に見ることもできよう。しかし今春採用された11名の民間出身校長のうちの2名が半年足らずのうちに問題を引き起こしている。小学校に配置された30代の元証券マンは3カ月足らずで退職した。「自分の経験や能力を活かせる職場ではなかった」というのが、本人の言い分だったようだが、証券業界と教育界の文化は水と油ほどの違いがあっただろう。市教委の人物を見る眼のなさと、応募者の浅慮に原因が求められるであろうが、被害者は教職員と児童・保護者たちである。
もう一人は59歳の小学校長である。ある児童の母親に対して酒席で繰り返し体に触ったり、親密な関係があるかのようなメールを送ったりするなどのセクシャル・ハラスメント行為を疑われている。就任後、間もない時期から始めていたはずだ。彼の生きてきた企業文化では、宴席などで女性の体に触れるのは許容範囲だったのであろう(女性社員は泣き寝入り)。日本の企業文化など、所詮はその程度のものかという皮肉の一つも言いたくなる。
橋下市長は、教員出身の校長にも不祥事を起こす者はいるとして、方針を変えるつもりはないという。他の者も同じような悪さをしているという言い訳は幼児によくみられるものだが、ほぼ2割の校長が深刻な問題を起こしたのだ。普通の神経なら政策の見直しをするだろう。大阪市は常識が通用しない世界になっているようだ。
乳幼児は万能感がある。泣けば周りの者が駆けつけるからだ。普通は家族から社会へと世界が広がる過程で成長していくのだが、過保護や逆に愛情不足の環境で育つと、快・不快で自分の行動を押し通そうとする大人になってしまう。一種の発達障害である。三つの例のいずれもが、周囲からの指摘を素直に受け止められず、自分の考えに固執する幼児性が原因となっている。通常はこのような暴走は社会の側に止める機能(Foolproof)が働くものだが、現代日本社会は全体的に幼児化が進行し、その機能が失われつつあるのかもしれない。
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