学生運動までだったということなのか?

著者: 藤澤豊 : (ふじさわゆたか):ビジネス傭兵
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学生運動に憧れていた。いたというと過去のことで、今は冷めてしまったのかと思われかねないが、そんなことはない。もう若い時のように息苦しいまでの熱はないが、心の底には消しようのない種火がくすぶっていて、ときに息苦しくなることがある。
学生運動に参加できなかったこと考えると、どうしても気持ちが振れるのを抑えられなくなる。そのせいで時代や話があちこっちに飛んで、なんとも行儀のわるい文章になってしまう。ご容赦ください。

京王線が高尾駅まで延伸する前の六七年に東京高専に入った。高尾駅から丘を登ること二〇分ちょっとで高専の裏口に着く。いまでこそ近くにイトーヨーカドーまでできたらしいが、当時はまだ空き地の目立つ新しい工業団地の一角だった。いまでも似たようなものだろうが、高専に行くということは大学にはほぼ間違いなく進学しないということを意味していた。地方ならいざしらず、高度成長とともに東京では大学進学が当たり前のようになっていた時代の話しで、東京高専は何からの事情で進学は難しいという家庭の出身者で占められていた。クラスには保護者と姓が違うのが三人いた。
それでも高専がちやほやされていた時代で薄っぺらにしても高揚感はあった。あと一年もすれば卒業という段になっても就職活動というようなことはなかった。引く手あまたで学生が会社を選んでいた。同級生のなかには、会社持ちの旅費をいいことにやれ九州だ四国だと入社試験や面接に出かけていたツワモノまでいた。まるでサラリーマンの出張のように出かけて帰ってきたら、「汗水たらして働くのはすきじゃないですって言えば、間違っても採用なんてことにはならないから大丈夫だ」と得意顔だった。
学校経由で就職希望をだしたらゴールデンウイーク前に面接に呼ばれて、開けて早々に内定が決まってしまった。今は知らないが当時は内定を頂戴してしまうと、もっといいのがあるかもしれないしと違う会社に就職希望を出すのは許されていなかった。ツワモノの土産話を聞くたびにちょっと悔しい思いをした。
そんな高専が体のいい職業訓練校にすぎないと気がついたのは就職してからだった。

六十年代には技術革新が進んで、工業高校卒では手に負えなくなってきていた。高卒に任せていた作業の、たとえ一部にしても大卒をあてるのはということで高専がつくられた(と想像している)。五年間で大卒と同等の専門教育をはいいが、促成教育とは丸暗記のような詰め込み教育にほかならない。中学を卒業したら、即大学の教科書で一握りの優秀なヤツしか授業について行けない。なんとかついて行っても途中で息が上ってしまう。機械工学科は定員四十人だったが、毎年ニ三人が退学してニ三人が留年、そして似たような人数が上から落ちて来た。なんとかしがみ付いて卒業したのはニ十六人だった。映画やドラマ、歌に謳われた青春なんかありゃしない。灰色の青春を送って社会にでてみれば、高卒の置き換えとしての扱いだった。
二十二歳か三歳の頃、労組の青年婦人部の集まりで初めて「神田川」を聞いた。高専の詰め込み教育に押しつぶされた俺の青春はなんなんだったと落ち込んだ。就職してやっと詰め込み教育から抜け出れたと思ったら、数十年変わらず日々が過ぎてゆくだけの職場で仕事はしてますというだけの会社だった。そこにいる限り、年をとっても何が残るとも思えなかった。戦時中からだと思うが、旧態依然とした労務管理にうんざりして、御用提灯をぶら下げた社会党右派の労組には呆れた。
養父の影響を受けて中学のころから左傾化していたが、就職してやっと社会がぼんやりと見えてきた。そこまでならまだしも、学生運動に参加しなかった、出来なかった自分に対する怒りと情けなさが日に日に募っていった。「神田川」のような情緒を蹴飛ばすかのように共産党に傾いていったが、そこでも労務管理と似たような思想統制に縛られた。

ある日、工場の隅で親しくしてくださった大卒の先輩からきつく注意された。「現場で学校のはなしはするな。工員さんたちからしてみれば高専卒も大卒と同じように見られてるから注意しろ」
工員さんのほとんどは工業高校卒、中には中卒で社内の職業訓練校を出た人たちもいた。日立精機は戦前から続く工作機械の名門と言われていた会社で呆れるほどの学歴社会だった。オイルショックをもろにかぶって帰休制をとっていて、七十二年は院卒と大卒に高専までで高卒を採用しなかった。立教出が一人いたが、全員国立か公立だった。先輩社員をみても私立はほぼ早稲田と慶応までだった。大卒なら無難にやっていれば、十年ほどで係長になれた。工員はよくて定年間際に温情で係長にしてもらえるところだった。ほぼ工員さんしかいない現場で学校の話し、それがたとえ部活やサークル活動の話しにしても、班長をはじめ現場の人たちから総スカンを食って仕事にならなくなる。

学生運動に参加できなかった後ろめたさを抱えながら、せめて間接体験をとセミナーに行っては、懇親会で当時のお話を拝聴し続けている。活動家だった方々からお聞きするたびに、畏敬の念と参加できなかった悔しさが入り混じった複雑な気もちになる。酒も入った席で、いちいち知らないヤツに説明なんかしちゃらんないのは分かるが、しばし話について行くのが辛い。赤だとか青だとか聞いても、それがヘルメットの色だと気が付くまでにちょっと時間がかかった。ましてや人名になると、誰その人?もしかしてエライ先生?という状態が今でも続いている。Webで調べても、実体験がないからなかなか記憶に残らない。

ついこのあいだ懇親会の席で参加者名を記入するA4の用紙が回ってきた。まあいつものことで思いながら氏名、住所と書いていって、おもわず手が止まった。そこには学校名を記入する欄があった。学歴を書くのは履歴書ぐらいだと思っていただけに驚いた。ガッカリもしたし、イヤな気持ちにもなった。
もう随分前になるが懇親会で「ぶんと」と聞いたとき、なにそれと思いながらも、その場では「なんですか、それ」とは聞けなかった。後日思い出してWebで調べて、ああそういうことなんだ。学生運動だったんだ。学生運動までで大衆運動になることはなかったんだと改めて思った。
「ぶんと」と入力してググると下記がでてくる。
「ブント(ドイツ語: Bund)は、結びつき、絆、連合、結束、提携、盟約、同盟、連邦、束を意味するドイツ語の名詞」
今でも聴き慣れない英語を使えば引かれてしまうことがあるのに、なんでわざわざドイツ語なのか?
そんなことを思っているところに興味深いYouTubeが見つかった。
「100年前(明治・大正時代)はどんな下ネタを使っていたのか?大正乙女・モガモボの隠語」
https://www.youtube.com/watch?v=nzlZHEuNHSs

大学進学が当たり前のようにいわれてはいるが、それでも進学率は五割を超えたあたりでとまっている。社会の半数近くは大卒になんらかのコンプレックスを感じているだろうし、なかには学歴による壁に苦しんでいる人たちもいる。六十年代からの学生運動が学生運動にとどまって社会運動になれなかった訳をA4の用紙がかたっているように思えてならない。
大衆をまきこまなければ社会は変えられない。当たり前のことだと思うが、当たり前じゃなさそうなお考えの方もいらっしゃるのかもしれない。古希を過ぎてもわからない、知らないことばかりで、また一つ勉強させていただいた。

半世紀という時間が見える風景を変えてしまったのか、学生運動というものは校門からはみ出た学園騒動が過激化したものに過ぎなかったような気さえしてくる。それは当時であっても部外者にはそう見えたかもしれない。なにを不遜なとお叱りを受けるかもしれないが、今も当時も半数以上の巷の人たちはさめた目で学生運動をみていた、いるんじゃないかと想像している。

高尾のいなかで物理的にも文化的にも遠いところにいたから、どうやったら学生運動に接する機会を捕まえられるのか分からなかった。古希もすぎて過ぎたことをいくら考えたところでどうなるものでもない。わかっているが、ちょっとしたことで気持ちが振れて、何かに共振したかのように忸怩たる思いを抑えきれなくなることがある。もし参加できていたら、随分違う人生になっていたと思う。思い出してはイヤな気もちになるが、参加できなかったことは、それはそれでよかったんじゃないかと意識して思うようにしている。無理してでもそう思わなければ気をたもてない。
2024/4/7 初稿
2024/5/20 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion13715:240521〕