安倍内閣の支持率はなぜ高いのか(12) ―ウェーバー政治論とのギャップに呆然―

ウェーバーの『職業としての政治』(岩波文庫)を読んだ。
日本の政治を長いスパンで見ると何処にいるかを知るためである。

《『職業としての政治』は死去前年のミュンヘン講演》 
安倍政治の崩壊は一寸先だと思う。メディアのテーマは「次は誰か」に移ると思う。
アベノミクスの失敗や安倍政治のファシズム性を総括しないで、政治家の権力闘争に話題を転換する。政治は永田町にあるというのがメディアの認識であり、政治家の固有名詞で政治を論ずるのが一般庶民の常識である。その伝統は良くないと思い私は読んだのである。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864~1920)は、19年1月に「職業としての学問」、「職業としての政治」の二つの講演をミュンヘンで行った。
短いものだが、後者が彼の政治認識の核心である。

ドイツおよび世界の状況はどうだったのか。
年表から事象を並べてみる。
▼1919年
・ 1月 1日 ベルリンでドイツ共産党創立
・ 1月 5日 ドイツ労働者党(ナチス)結成
・ 1月18日 パリ講和会議始まる(~6/28ベルサイユ講和条約調印)
・ 1月19日 ドイツ国民議会選挙 社民163、中央88、民主75、独立社民22
    共産党不参加
・ 3月 2日 コミンテルン創立大会(モスクワ)
・ 5月 4日 北京学生示威行動(五・四運動)
・ 7月31日 ドイツ国民議会ワイマール共和国憲法を採択
・ 11月19日 米上院、ベルサイユ条約批准否決
▼1920年
・ 1月10日 国際連盟発足

《時代と問題意識》
 『職業としての政治』の訳者脇圭平は同書の「あとがき」てこう述べている。(■から■)この記述は、1945年後の数年間、日本を支配した知的・政治空間を想起させる。
■第一次大戦における敗戦の結果、ドイツ全土が騒然たる革命の雰囲気に包まれていた時期である。熱烈なるナショナリストでもあったウェーバーにとって祖国の敗北はたしかに大きなショックではあったが、それ以上に彼を悲しませ、やりきれない思いに駆り立てたのは、この戦争の結果(敗戦の事実)をあたかも「神の審判」のように受けとり、自虐的な「負い目の感情」の中で、ひたすらに「至福千年」の理想を夢み、「革命という名誉ある名に値しない血なまぐさい謝肉祭」にわれを忘れて陶酔し切っているかにみえる一部の前衛的な学生や知識人の善意ではあるが独りよがりな「ロマンティシズム」であった■

ウェーバーの政治論は、「政治とは国家間であれ、国内の人間集団間であれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」と定義する。
そうであれば、究極の権力を持つ国家の正当性が問題になる。ウェーバーは政治支配の
類型に三種あるという。一つは伝統的支配、二つはカリスマ的支配、三つは合法性による支配である。正当化された国家に人々は服従する。その物質的な担保は、国家のもつ「暴力装置」である。

《三つの支配類型・伝統的・カリスマ的・合法的》
 三つの「理念型」は、歴史的な現実を反映させつつウエーバーが抽出した概念である。彼は、現代は合法的支配が大勢と見ながらも、カリスマ的支配も存在しうるとみていた。「カリスマ」はギリシャ語の「神から与えられた奇跡、呪術、預言などを行う超自然的・非日常的な力」のことである。カリスマ的支配はそういう能力を持つ指導者による支配である。カリスマに帰依した人々は服従する。ウェーバーは、歴史上の人物にそれを見たと同時に、当時の国際社会を見渡して、敗北したドイツにもその出現を幻視したのであろう。

ウェーバーの政治(=権力闘争とその分配)認識はリアルであった。しかし、彼の政治論の特色は、その過酷な現実主義には満足できず政治家の「責任倫理」を見ようとしたことである。彼は、政治家が権力を行使するときの昂揚した気分を「心情倫理」の達成とみた。しかしそれは「空虚」な達成であり、悲劇性があると考えた。
ウェーバーはいう。
政治家にとって「情熱」、「責任感」、「判断力」が重要である。
情熱とは「事柄」(仕事・問題・対象・現実)への情熱的献身である。
情熱が「責任感」と結びついてはじめて政治家をつくり出す。そのためには「判断力」が必要である。それは事物と距離を置いて見ることである。
これだけの発言でも、私はウエーバーの政治に対する精神性の大きさに感じ入る。

《倫理と政治の関係はなにかという問い》
 しかしウェーバーの考察は、遂に「倫理と政治の関係は本当はどうなっているのか」という問題に発展する。
■「ボルシェヴィズムやスパルタクス団(ドイツ共産党の前身。民社党最左翼で非合法の一派)のイデオローグたちも、彼らが行使するこの政治的手段のゆえに、軍国主義的独裁者とまったく同じ結果を招いているという事実に、われわれは気づいていないのだろうか。権力を掌握した者の人柄とディレッタンティズムという点を除いて、労兵評議会の支配と旧制度のどれか任意の権力者の支配と、一体どこが違うのか■

ウエーバーはこのように、政治目的のためには手段を選ばないというリアリズムに満足できない。それはフランス革命最終段階の恐怖政治への評価に関して以来、「近代のジレンマ」、「歴史の狡知」として指摘され論じられてきた。ウェーバーは百年前に死んだが、以降の歴史を見れば、ロシア革命、ナチス・日本軍のホロコースト、米国による日本への原爆投下、文化大革命などがその例証となるだろう。

「心情倫理」と「責任倫理」。これがウエーバー政治論の最後の論点である。
私の理解した限りでは、現実政治はともかく、「心情」が強ければ目的のために手段は正当化されるという論理は破綻する。心情倫理論の究極には最後は神が判定してくれるという思想があり、人間による責任の回避というのが、彼の結論である。
しかし「責任倫理」についても、矛盾はなくならない。これがウェーバーの問いかけだ。
■山上の垂訓は資産について「一切か無か」といっている。福音の徒は無条件的で曖昧さを許さない。汝の有てるものを―そっくりそのまま―与えよである。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。(略)さらにそこでは「汝のもう一つの頬も向けよ!」である。一体他人に人を殴る権利があるのか、そんなことは一切問わず、無条件に頬を向けるのである■

《明治150年の謳歌どころではない》
 マックス・ウェーバーの政治論は最後に宗教論、責任論にまで上昇する。
彼の強い危機意識にも拘わらず、ドイツにはヒトラー政権が実現し再び世界大戦に敗れた。日独伊三国同盟の一員として、昭和天皇を戴く大日本帝国も「大東亜戦争」を戦い、最後はほとんど全世界を敵として敗北した。
現在、国際社会での存在感で、日本は圧倒的にドイツにリードされている。ドイツが及第で日本が落第というつもりはないが、「明治一五〇年」の謳歌ではないだろう。
国のかたち、外交、国内政経、エルルギー、文化。150年を総括し次の150年を真剣に展望したい。このままでは地盤沈下あるのみである。(2018/04/15)

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