(2022年9月5日)
安倍国葬反対の声は澎湃として全国を席巻しつつある。そもそも国葬とは、国民の圧倒的多数が死者に対する敬意と弔意を有して始めて成立するものだろう。あらゆる世論調査の結果がその真逆の民意を示している。国葬推進派も、「大多数の国民が、安倍元首相に対しての国を挙げての敬意と弔意の表明を望んでいる」とは、けっして言わない。とうてい、言えない事態なのだ。
ならば、安倍国葬はもうあり得ない。もともと無理だったのだ。「過ちては改むるに憚ることなかれ」ではないか。また、「過ちて改めざる是を過ちと謂う」とも。岸田君、今こそ君が隠し持っているというあの「国民の声を聞く力」を初めて発揮のときだ。君は不得意なようだが、自分が間違った理由を、国民に丁寧に説明し謝罪すれば、まだ続投の目はある。過ちを認めず、改むるを憚り、結局改めざるの過ちを重ねれば、傷が深くなるばかり。
傷は浅いうちに治癒すべきが鉄則ではないか。幸い、国葬の実施は国会を通さずに閣議決定で決めただけのものだ。それなら、国葬実施撤回の閣議決定をしさえすればよい。簡単なことだ。
ところで、国葬反対の理由は、当初は違憲論が主調だった。《安倍国葬》よりは、《国葬》そのものが違憲・違法とする立論。憲法19条・14条違反。あるいは、財政民主主義に反する、そもそも立憲主義に反する…等々。やや、小難しい。
次第に論調は《安倍国葬反対》に移ってきた。理由は、よく考えて見れば安倍晋三が国葬に値する人物ではないという分かりきったことの再認識。こんな人物を国葬にするなんて、日本の恥ではないかという真っ当な感覚の復活である。「ウソつき晋三の国葬反対」「政治を私物化し忖度文化をはびこらせた安倍の国葬を認めない」「歴史を偽造しヘイトを煽った人物の国葬などとんでもない」「こんな人に、敬意や弔意なんてまっぴら」と、分かり易い。
しかも、安倍国葬反対の世論高揚に決定的なインパクトとなったのは、統一教会問題だった。岸信介・安倍晋太郎・安倍晋三の三代にわたっての、統一教会との醜悪な持ちつ持たれつの関係の一端が暴かれて世論は急速に変わった。明らかに白けた。
安倍と教団との相寄る二つの魂をつないだものは、反共という黒い糸。今世論は、安倍晋三と統一教会の関係に敏感な反応を示している。「統一教会の広告塔である安倍晋三の国葬はあり得ない」「統一教会の正体隠しに加担し、霊感商法や高額献金を支援した安倍晋三ではないか。糾弾すべき人物を国葬なんて」「反共・極右の政治信条で統一教会と結びついた安倍晋三の国葬には、危険な政治的意図の臭いがする」…。
岸田や茂木など自民党幹部は、「統一教会と自民党との接触はない。教会と接触を持っていたのは議員個人でしかない」という論法で、世論をかわそうとしているようだが、さてどうだろうか。自民党と統一教会・勝共連合とが公式には接触していないのか、今のところは分からない。しかし、統一教会は、信介・晋太郎・晋三と自民党の要職を嗣いできた世襲三代と親密な関係を築いてきた。何よりも、自民党総裁として権勢を欲しいままにしてきた安倍晋三が、統一教会・勝共連合とは抜き差しならぬ関係にあったのだ。
他の議員のことは後回しにしても、安倍晋三と統一教会・勝共連合との抜き差しならぬ親密な関係を徹底して真っ先に調査すべきが、自民党の世論に対する責務であろう。いま、これをやる気があるのかが問われている。
自民党の幹部は、「亡くなった人への調査には限界がある」と言っているそうだが、そりゃまるで安倍流の流の嘘だ。「限界」は調査回避の口実に過ぎない。安倍晋三が生存していたとて、任意の自白をするはずはない。そのことは、モリ・カケ・サクラで、国民が身に沁みている。むしろ、安倍なき今こそ、安倍に忖度のない調査環境が調ったと言うべきである。安倍なき今だからこそ、遠慮のない徹底した調査が可能となってる。その上で、あらためての安倍晋三の身体検査がどのくらいできるのか、自民党自身が、その自浄能力の有無を問われているのだ。
それにしても、泉下の安倍晋三の心情を忖度するに、国葬は迷惑至極な押し付けであろう。家族葬だけにしておけば、銃撃の犠牲者であったものを、国葬なんぞにしようとするから、「ウソつき」「政治の私物化」「ヘイト、歴史修正主義者」「反共・霊感商法擁護」と生前の悪行を暴かれ数え上げられているのだ。自らの不徳の致すところとはいえ、気の毒ではないか。安倍晋三自身のためにも、一刻も早く、安倍国葬実施の撤回をしてあげるべきだと思うのだが。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.9.5より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=19880
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