はじめに
第2次安倍政権下の大学入試改革は、13年秋の教育再生実行会議の提言から始まった。その後、元慶応大学塾長の安西祐一郎氏を長とする中央教育審議会(中教審)に移され、一年余りの審議を経て14年末に最終答申が出された。その答申は部会長自身が「今後の検討に期待する」と言い放ったほど雑なものであり、各方面から具体化の可能性を危惧する声が上がった。
答申を受けた文科省はワーキンググループ(WG)を設置し、この7月、最終的な「実施方針などの策定」が発表され、センター試験の名称も「大学入学共通テスト」と変え、4年後に全面実施されることとなった。今後は、この方針にそって実施に向けて準備が進められていくことになる。しかし、結論から言えば、最初のボタンの掛け違いが最後まで尾を引き、作業は遅れ、示された「策定」さえも、実施までには多くの困難を抱えたものとなっている。
安西中教審の答申の骨子は、以下のようなものだった。
(1) 思考力・判断力・表現力を中心とした評価
(2) 教科別試験に加えて総合型の導入
(3) 記述式の導入
(4) 年複数回実施
(5) 段階別表示(一点刻みの排除)
(6) 英語の四技能(読む、聞く、書く、話す)の評価と民間の資格・検定試験の活用
(1)は問うべき学力観を示し、(2)~(6)がその具体策である。現状の入試が、記憶力を測ることに偏り、高校以下の教育が「知識注入型」になっている、という見方が根本にある。現状のままでは、グローバル化が進展する新しい時代に求められる人材を育てられないとして、センター試験を全否定するかのように、その廃止も明言してしまった。しかし現状のセンター試験が万全ではないとしても、よく工夫された良質なものであることは、多くの教育関係者が認めるところである。誤った現状認識をもつ人物が部会長に就いたことが、そもそもの間違いだったと言わざるをえない。具体策を一つずつ点検していこう。
総合型テスト
高度な理解力や判断力を判定するには、教科単位ではない総合型のテストが有効ではないかというのだが、素人考えというしかない。テストとしては意味がないどころか、関係者を混乱させるだけである。例えば国語(日本語)や英語を交えながら社会科の内容を問うテストを考えてみよう。受験生の得点は、日本語能力、英語力と社会科の学力のいずれを反映しているのか不明である。数学と物理を組み合わせでも、最終的な得点が示すものが、数学の知識や技術のレベルなのか物理の知識や技術レベルなのか判然としない。物理の知識を確かめたい学部・学科は、個別の問の正答率を確認する作業が必要になるだろう。それなら、初めから物理の試験を課せばよい。中教審答申では、「当面は教科型と総合型を並行させ、将来的には総合型に一本化」としていたが、WGの作業過程において、この方向性は完全に否定され、教科型に落ち着いた。
記述式について
字数をめぐる議論の果てに、国語と数学で80~120字程度書かせることになった。この字数で「表現力」を測れると考える人は皆無だろう。ある程度の文章を書く経験をしている者には自明のことであるが、論理的な文章(散文)の表現力を確かめるには、原稿用紙3枚(1200字)程度以上の分量を書かせる必要があろう。実際に地方公務員試験や教員採用試験では最低でも800字程度以上は書かせる。しかし、そのためには相当な試験時間を割く必要があるうえ、50万人以上の採点には、膨大な人員と大規模な施設・設備の確保が必要となる。
このわずか百字前後の記述式回答も、その採点は民間業者へ委託する方針が示されている。想定されている民間業者とは、小学6年と中学3年を対象に実施している全国学力調査の採点を引き受けているベネッセなどを念頭に入れているのであろう。しかし実際の採点作業は、一定以上の学力をもつ大量の非正規雇用の労働者を動員して行われているものである。政府はこのため、数十億円の予算を毎年のように支出しているが、大学入試の場合は、「受益者負担」として、受験料の引き上げ要因となるだろう。
複数回実施
年数回行われているアメリカの進学適性検査(SAT)をイメージしているのであろう。「一発試験」の重圧を経験してきた多くの国民にとっても響きのいいアイデアである。しかし臨教審でも取り上げられ、その困難さが指摘されて消えてきた経緯もある。フランスやドイツなども受験機会は基本的に一回である。
アメリカは何が違うのか。アメリカの初等・中等教育は植民地時代から地域に委ねられてきた。開拓民たちが自前で積み重ねてきた学校教育が前提にある。したがって、中等教育の内容に統一基準を示すことは不可能であり、大学入学希望者の教科知識の習得レベルを高校修了時に問うのは不可能だ。その代替として、潜在的な学習能力を測る検査が発達してきた。
日本では教育内容は学習指導要領に詳細に指定されている。ただし各教科・科目を何年生に置くか、また採択する教科書も学校の裁量に委ねられている。例えば物理や化学を1,2年生で終わらせる学校もあれば、2,3年で履修させる学校もある。教科書によって単元の並べ方も異なる。3年生の年度途中に全国一斉テストをすることは不可能である。教育研究者や文科省のスタッフの助言を聞いていれば、このような無意味な提案は避けられたはずだ。これもWGの作業のなかで早い段階で否定され、現状の入試センター試験とほぼ同時期の一回の実施という結論となった。
段階評価について
「一点刻み」の否定は俗受けしやすいだろう。しかし一点刻みがなぜ発生するのか考えれば、理由は定員制に行き当たる。大学側に受け入れ人数に関する裁量が認められていれば、一点刻みは発生しない。各大学が教員数や施設・設備の条件の範囲内で合格者数を決められれば、学力水準(段階)で合格者を決定できるのである。
ところが現在の国立大学では、それは許されない。定員以上の応募者があっても、大学・学部の教育に耐えると判断できる応募者が少ないために定員を下回る合格者数とすれば、大学はペナルティを課される。私立大学であれば経営上の理由から許されない。答申では段階評価とすることを提案したが、定員制度のもとでは「最後の一人」を判定するためには、いずれかの資料の「点差」によるしかない。例えば地元優先を選抜方針に掲げる公立大学が段階評価で一塊になったグループから、最後の一人を選ぶとすれば、大学からの距離(1メートル刻み)で決定することになるだろうか。「策定」でも、採点は一点刻みとする結論になった。
民間検定の活用(英語)
具体的に指摘されているのはTOEICと英語検定である。TOEICは基本的にビジネス・英語の運用能力試験である。990点満点の5点刻みで結果が示されるが、現状のTOEICが大学教育を受けるに必要な英語力を測るのに相応しいと考えるものは少ないだろう。また英検では5級から1級までの7段階(準1、準2がある)しか示されない。大学側としては選抜資料としての利用するうえで不便を強いられることになる。「策定」では、当面、センター試験と外部資格試験を併用するとしている。
結 論
以上のように安西氏の掲げた新たな大学入試の構想は、その具体化策のほとんどが否定され破綻している。「策定」公表後、文科省の担当者(7月段階では大学入試センター副所長)は「一歩一歩着実に進んでいる」(「月刊高校教育」8月号)としているが、なにか自嘲的な響きさえ感じさせるのである。
当の安西氏が何を考えているのか知りたいところだが、「策定」の公表の直前に発足した竹中平蔵氏が代表を務める「教育改革推進協議会」の発会式に名前を連ねている。竹中氏といえば、小泉政権下で派遣労働の規制緩和する法制整備の中心にいて、その後、自ら労働者派遣企業の顧問に納まり、多額の報酬を得ていることが知られている。発会式には教育情報企業も参加している。大学入試の一部が「民間」に委ねられることになる。彼らのビジネスチャンスということだろう。大学入試改革も、国家を私物化し、国家解体を進める安倍政権の姿勢をよく示している。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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