昨年10月末、内閣府の教育再生実行会議は、大学入学者選抜の改革提言を行った(第四次提言)。新聞各紙は「人物本位の選抜へ」という見出しで報じた。提言の中にその文言はないが、「達成度テスト」、「複数回の試験」、「丁寧な選抜」など、たしかに抜本的な改革を思わせる言葉が並ぶ。
提言は大学入学者選抜に利用するテストを、基礎レベルと発展レベルの二つに分け、前者について「基礎的・共通的な教科・科目の学習達成度について、知識・技能だけでなく、その活用力、思考力・判断力・表現力等を含めた幅広い学力を把握・検証できるもの」とし、後者については、「将来的」な「言語運用能力、数理論理力・分析力、問題解決能力等を測る問題の開発」を提案しており、いっそう漠然としている。
ここでは、アメリカで広く利用されている大学進学適性検査(SAT=Student Assessment Tests)が意識されているのは間違いない。SATは、読解力・作文・数学の3領域(読み書き算盤)の汎用的学力を問う総合的な試験である。教科・科目の知識を問う従来の日本の入試とは大きく異なる。しかし、提言は「具体的な実施方法や実施体制、実施時期、名称、制度面・財政面の整備等について、(中略)中央教育審議会等において専門的・実務的に検討」と、具体的方策については完全に逃げている。
下駄を預けられることになった中教審の高大接続部会の8月の会議では、さっそく国立大学協会側から次のような強い要望が出された。
「合教科・科目型」や「総合型」の導入は総合的な思考力・判断力を評価する上で有効と考えられるが、多数の受験者に対し一律に実施される共通試験での評価には困難が想定されるため、十分な専門的検討や試行が必要であること。また、これらを導入するとしても、(中略)コア科目に関する適切な能力を有しているかどうかの判定が欠かせないため、高等学校学習指導要領に基づく5(6)教科(7科目)による基礎的な「教科型」学力判定機能は基本的に維持すること。
ところで、「達成度テスト」は今回の提言が初出ではない。民主党政権期に佐々木隆生北大教授(当時)を代表者とする研究会が「高大接続テスト」を提案した報告書のなかにある。また2012年に民主党政権時代に出された「大学改革実行プラン」のなかにも、大学入試改革の必要性が取り上げられるなど、大学入試制度の改革の必要性と問題点は整理されつつあったのである。
しかし安倍政権になって議論から専門家が排除され、再び混乱している。ひと昔前であれば、文科省の担当官僚が、議論が脱線しないよう要所々々でコントロールしていたのだが、政治家の劣化と官僚の劣化とが相まって、出口なしの袋小路に入っていくのを止められないように見える。中教審にもかつては教育学の専門家を一人は入れていたのだが、今回の特別部会から教育学者が排除されている。医者を排除した素人集団が患者の治療法を議論しているようなものである。
さて提言について、その問題点について3点ほど指摘しておきたい。
第一に、「知識偏重の一点刻みの選抜からの脱却」が強調されている。人によっては、一点差で鎬を削る受験競争から人物重視の選抜に転換するよい考えだ、と受け止めるかもしれない。
しかし佐々木らの報告では、そのような文脈で論じられるわけではない。技術論として論じられている。入試センター試験を含む多くの大学入試では、正答率が50-60%になるように問題が作成される。いわゆる正規曲線(Bell curve)とよばれる、得点分布が左右対称になるように、である。倍率が数倍以上あれば、上位の裾野の部分を切り取れば、一定レベルの学生をとれ、それなりに有効な選抜方法である。
しかし、競争倍率が2倍となったらどうなるか。平均点の部分に最大の受験者数が集まるから、得点差で合否を決めようとすると、0.1点あるいはそれより小さな得点差で切らねばならない。つまりこの方式では、最低でも3倍の倍率がないと選抜機能がなくなる。すでに地方国立大学の一部でも倍率が2倍を切っている学部・学科も少なくない。急速に少子化が進む中で従来の選抜方法は機能マヒを起こし始めている。佐々木たちの報告はアメリカのテスト理論を援用した解決策を提案していたのだが、安倍政権では居酒屋談義のレベルに引き戻されてしてしまった。
第二に、提言のいう「言語運用能力、数理論理力・分析力、問題解決能力等を測る問題の開発」=総合的試験問題というアイデアについてである。SATをイメージしているわけだが、どこの国の学校制度や選抜制度も、それぞれの国の歴史的・文化的文脈から離れては理解できない。
アメリカの場合、移民国家であり英語以外の言語を母語とする国民が多いこと、また州に教育に関する権限が与えられ、さらに同じ教科・科目名でも学校によって学習内容が大きく異なることなどから、科目レベルの学力試験が困難であるという特殊な条件がある。したがって「総合的なテスト」をするしかないのである。
またアメリカの学部教育は基本的に教養教育(リベラルアーツ)であり、1,2学年で教養を身につけ、3,4学年で専攻(major)を絞っていく。大学入学時の教科別の知識や技術レベルを厳密に見極めることは必ずしも重要ではない。つまりアメリカの大学教育とSATは適合的なのである。国際的にみれば、アメリカの選抜制度は見倣うべき進んだ制度ではなく、アメリカの事情から生まれた特殊な制度と理解すべきである。
なお、教育制度が整っているヨーロッパなどの国々では、大学出願時に大学での学習に必要となる教科・科目の習熟度が問われる仕組みになっている。フランスのバカロレアの場合は、「普通バカロレア」とよばれる大学進学の試験では、フランス語を初めとして、地理・歴史、物理・化学など、通常の科目別試験である。イギリスの場合、中等教育終了段階の16歳で受けるGCEも科目別であるし、大学入学資格試験であるAレベル試験も科目別である。応募する大学・学部によって受けるべき試験科目は指定される。先進諸国の多くでも、国際学力調査(PISA)など、学力観についての見直しが行われているが、大学入試制度そのものに大きく手を加えている国はない。
第三に、複数回受験の提言である。これが実現すれば受験者にとっては、より良い得点を提出できると考えている向きもあるだろう。得意分野が出題されたとかの幸運から良い点数が得られる機会もあるだろう、と。しかし、それでは得点を受けとった大学側は混乱せざるをえない。
アメリカで複数回実施が可能となっているのは、アメリカで開発されてきたテスト理論に裏付けられたテスト作成と結果処理があるからである。過去の膨大なデータと照らし合わせて、標準偏差を利用した統計処理が行われ、平均が500点程度になるように調整される。テストの難易度によってスコアが上下するということはありえず、学習を続けていれば確実にスコアは上昇していく。そのような仕組みは日本では開発されていないし、開発されたとしても素点主義に慣れ親しんだ日本社会に受け入れられるのは難しいだろう。
大学入試改革は安倍政権が退場した後、いったん白紙に戻すしかないだろう。それまで親や教育関係者さらに予備校などの教育産業までが、中教審の一挙手一投足に神経を尖らせ対応を検討することになる。試行錯誤のままの「改革」が実行に移されることがあれば、混乱は避けられない。10~20年後には、学校現場を混乱させ学力低下を招いた元凶として、安倍政権は指弾されることになるだろう。
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