対米戦に勝利した総司令官100歳に -新しい平和(=非暴力)観を求めて-

ベトナム解放戦争の総司令官だったあのボー・グエン・ザップ将軍が健在で、100歳を迎えたというニュースがインターネット上で飛び交っている。ザップ将軍は私(安原)にとって実は忘れがたい思い出がある。ベトナム戦争中、私は経済記者として戦争の行方に大きな関心を抱いていた。ザップ将軍の論文の一つ、「ベトナム人民の解放戦争はかならず勝つ」を読んで、「アメリカは負けるのではないか」と直観した。事実その通りに歴史は動いた。
 ベトナム戦終了後30数年の歳月を経て、いま改めて考えるべきことは何か。それは平和とは何か、である。「平和=反戦」という従来の平和観を超えて「平和=非暴力」という新しい平和観をつくっていくときである。(2011年10月8日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 『早乙女さんと行くベトナム解放30周年記念ツアー』という題名の記録文集(執筆者約40名)がある。私(安原)が寄せた感想文の中から、ザップ将軍(1911年8月25日生まれ)の戦争観、アメリカのベトナム侵略戦争とその悲劇にかかわる記事(大要)を以下に紹介する。

▽ 解放戦争とボー・グエン・ザップ将軍

 作家、早乙女勝元氏を団長とする「ベトナム解放30周年記念ツアー」(2005年3月末から4月はじめにかけて)に参加する気になったのは、アメリカの侵略からベトナムを解放する人民戦争の総司令官だったボー・グエン・ザップ将軍と会談できると聞いたからである。将軍はどういう人物なのか、この目で確かめてみたいという誘惑に駆られた。そしてかつてのベトナム解放戦争の英雄がいまの日本、アジアそして世界をどう見ているのか、世界平和の将来図はどうかなどに関心があったからである。これには若干の背景説明が必要だろう。

1965年(昭和40年)頃、私は新聞社の経済記者としてベトナム戦争の行方にも大きな関心を抱いていた。当時「ベトナム特需」が話題になり始めていた。ベトナム戦争後をにらんだ復興需要のお陰で日本の経済界が潤うという虫のいい胸算用でもあった。経済記者としてベトナム戦争に無関心でいるわけにはいかなかったのだ。当時、将軍の人民戦争に関する論文はかなり読んだ。
 その一つ、「アメリカ帝国主義とその手先にたいするベトナム南部人民の解放戦争はかならず勝つ」と題する論文(ベトナム労働党中央機関紙『ニャンザン』、1964年7月19日付)は次のように述べている。

 「解放戦争の対象は、アメリカ帝国主義とその手先の新植民地主義である。彼らは物質的には強力であるが、精神的、政治的にはきわめて弱い(中略)。敵の力に比べてわが人民の力はいまのところ物質的にははるかに弱いが、政治的、精神的には逆にきわめて強い。(中略)アメリカ帝国主義は世界の進歩的世論からばかりでなく、同盟諸国からさえ非難を浴びる始末で、彼らは明らかに孤立している。(中略)解放戦争は長期にわたる激烈なものだが、最後には必ず勝利する。(中略)人民の戦争は新しく大きな大衆の創作であり、つねに勝ち、敗れることがない」

私は当時、この種の論文を読みながら「アメリカは負けるな」と直観した。そして取材先の経済人たちに「アメリカは負けるよ」と議論を吹っかけて歩いた。彼らの反応は「世界最強の軍事力を誇るアメリカが敗れるはずはない」、「しかし停戦はいつかはやってくる」であった。人民戦争の政治的、精神的な力量を視野の外におく誤りを正さないかぎり、また軍事力絶対主義にとらわれた固定観念を捨てないかぎり、「ベトナムの勝利」は見えてこない。しかしそれから10年後の1975年4月30日アメリカ軍は敗退し、人民戦争の勝利が歴史に記録された。
以上のような個人的ないきさつから私の胸中にずっと「アメリカの敗退 ― 人民戦争の勝利 ― ザップ将軍の英雄的指導、すなわちベトナム」という図式が大きな比重を占めていた。

▽ 世界最大のテロリストは誰か?

ベトナムを訪ねて認識がより鮮明になったのは、アメリカの侵略戦争による悲惨な後遺症がいまなお続いていることである。その一つは、後に世界中の話題となったベトナム中部のソンミ村における米軍の大虐殺である。1968年3月16日早朝、ヘリに分乗した約100人の米兵が村を急襲、無抵抗の幼子も含めて504人の村民を手当たり次第に虐殺して回った。奇跡的に生き残ったのはわずかに8名だった。後に有罪判決(注1)を受けたのは指揮した小隊長のカリー中尉だけである。
 「すべてを焼き尽くせ」、「皆殺しにせよ」、「すべてのものを破壊せよ」を合い言葉に米軍兵士たちは、1人殺すたびに「ワン スコア」(1点)、もう1人の命を奪うと、「ワン モア スコア」(もう1点)と数えたという証言を聞いた。これはまさしく虐殺ゲーム以外の何ものでもない。これが人間性を喪失した侵略兵の本性である。ソンミ村の破壊跡に建てられた記念館の追悼碑には犠牲者全員の氏名が刻みこまれている。
(注1)米政府はこの戦争犯罪を闇に葬ろうとしたが、明るみに出たため、1970年の軍事法廷で14人を起訴した。しかし有罪判決(終身刑)を受けたのは、小隊長のカリー中尉のみで、その後10年の刑に減刑され、74年に仮釈放された。

アメリカの侵略戦争の目的は「ベトナムを石器時代に戻せ」だった。第2次世界大戦の全爆弾量の4倍以上の爆弾をベトナム全土に投下し、それは日本の広島・長崎を攻撃した原爆の破壊力の756倍に匹敵する。当然ベトナム人の犠牲者は多数にのぼった。死者300万人、負傷者400万人、ベトナム戦終了後30年の時点で30万人が行方不明のままであった。
 もう一つ、米軍が空から撒いた8000万㍑の枯れ葉剤による犠牲とその後遺症には目を覆うものがある。枯れ葉剤には猛毒化学物質・ダイオキシンが含まれており、その毒性はわずかな量でもニューヨークの水道に入れれば、市民全員が死ぬほど強いという。このダイオキシンの悪影響を受けたベトナム人は300万人~500万人ともいわれる。このため数百万人が労働の能力を失い、さらに孫の代まで遺伝子の影響が及び、その最大の被害は脳性マヒである。「人間として生きる権利を奪われた」と訴えるベトナム人たちの心身の痛みが薄らぐことはないにちがいない。

 ベトナムの犠牲者たちはアメリカの枯れ葉剤メーカー(製薬会社)37社を相手取って損害賠償の訴訟をニューヨーク地裁に起こしたが、同地裁は05年3月「被害がアメリカのダイオキシンによるものという科学的証明がない」という理由をつけて訴訟を却下した。ベトナムの戦場にいた米兵の被害は認定し、賠償(注2)しているのに、ベトナム人の被害は認定しないのは不公平だとベトナム側が主張しているのは、正当な申し立てである。 「枯れ葉剤を含め大量破壊・虐殺の武器を持っているのはアメリカである。枯れ葉剤の訴訟を受け容れると、米大統領は戦争する権力を失うことになる。訴訟のニュースをアメリカのマスコミは報道しなかった。訴訟相手の製薬会社37社の年間売上げはベトナムの国全体のGDP(国内総生産)よりも大きい。一方、ベトナムの被害者は貧しい人々である。われわれは正義と、それを信じる世論との二つを武器に今後も戦いつづける」とベトナム諸国友好協会連合会のチャン・ダック・ロイ副会長は力説した。
 (注2)アメリカの枯れ葉剤メーカーは1984年、米退役軍人1万人に和解金として総額1億8000万ドル=約190億円(当時)を支払った。

 以上のようなベトナムを舞台にしたアメリカの軍事的暴力を具体的に追跡することから何が見えてくるだろうか。それは世界最大のテロリスト集団は、ほかならぬアメリカだという事実である。ベトナムでの人道に背く蛮行は一例にすぎない。過去半世紀にアメリカは外交上、軍事上の覇権主義の下に地球規模でどれだけの暴力を重ねてきたか。アメリカの軍事力行使と輸出されたアメリカ製兵器による犠牲者は数千万人に達するという説さえある。アメリカこそ世界最大のテロリスト集団と認定せざるを得ない。
 正確にいえば、その正体はホワイトハウス、ペンタゴン(国防総省)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー産業、新保守主義的な研究者・メディアを一体化した巨大な「軍産官学情報複合体」である。これがアメリカの覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、世界に人類史上例のない災厄をもたらしている元凶である。これをどう封じ込めることができるか ― 今でも私の脳裏から離れることのない宿題である。

▽ 「侵略戦争も終わり、平和が勝利する」ことを信じて  

 さてベトナムの平和政策はどうか。憲法で軍事力廃止をうたっているわけではないが、1992年憲法14条で「対外的な平和・友好政策、協力関係の推進、内政に対する不干渉」を強調している。ザップ将軍は、早乙女勝元団長の「最大の破壊兵器をもつアメリカは世界最大の暴力者ではないか。暴力のアメリカに対し、非暴力の知性が世界を平和にまとめることができるかどうか」という質問に次のように答えた。 
 「今後の行く道は大変難しい状況にあると予測している。しかし平和運動は世界に広がっていくだろう。将来の平和が勝利することを信じている。世界の人民が団結して独立と自由を掲げて戦えば、やがて侵略戦争も終わりを告げるだろう」と。

 ここで冒頭に紹介したザップ将軍の論文中の次の二つを考えてみたい。
(1)アメリカ帝国主義は物質的には強いが、精神的、政治的には弱い。
(2)アメリカ帝国主義は世界の進歩的世論だけでなく、同盟諸国からも非難されており、明らかに世界で孤立している。

 ベトナム戦争中のこの状況把握は21世紀初頭の今日でも大筋では通用するのではないか。むしろアメリカにとって状況は悪化している。ベトナム侵略の過程でいわゆるアメリカ帝国の衰微が始まったが、今日はイラク攻撃のため貿易、財政の「双子の赤字」がふくらみ、それを穴埋めするために資金面で日本、中国など海外に大きく依存せざるを得なくなるなど物質的にもかつてほどの強さはうかがえない。さらに世界におけるアメリカの孤立ぶりも、ドイツなど多くの同盟諸国がイラク攻撃に「ノー」と背を向けているので、一段と深刻になっている。このような世界情勢の変化が同将軍に21世紀における平和の勝利を確信させている根拠ではないかと私は感じ取った。

▽ 広がる平和運動 ― 平和の再定義(平和=非暴力)が必要

 上述のベトナム訪問記から6年余経った2011年秋の現在、ザップ将軍の発言をどう評価できるか。将軍は「平和運動が世界に広がり、将来の平和が勝利することを信じている」、「やがて侵略戦争も終わりを告げるだろう」と2005年に語った。残念ながら2011年10月現在では、「平和の勝利」、「侵略戦争の終わり」は実現していない。しかし「平和運動が世界に広がっていくだろう」という予測は実現しつつある。

 例えば「脱原発」運動である。
 それは「3.11」の大震災と原発惨事に見舞われた日本で顕著で、日本列島の各地で活発な脱原発デモが繰り広げられている。その代表例が作家・大江健三郎さんらの呼びかけで、全国から約6万人集まった「さようなら原発集会」(9月19日、東京・明治公園)である。
 反原発デモについて作家・雨宮処凛さんは「未来は私たちで決めよう」と題して次のように述べている(10月5日付毎日新聞)。
 長らく、この国の多くの人はデモという、誰もがもっている権利の存在を忘れていた。しかしデモは誰にだってできる。憲法で保障された権利なのだ。(中略)しかし他の国を見ると、当たり前に意思表示し、現実を変えている。(中略)福島の事故を受け、さまざまな国でデモが起こり、こうして現実を変えている。私たちは、どんな未来を望むのか。当事国の当事者が動かなければ、何も変わらない。

 例えば「ウオール街の占拠」運動である。
 10月5日付朝日新聞は、<「反ウオール街」全米へ拡大>、<ウオール街で「格差NO」>などの見出しでつぎのように伝えた。  
 経済格差や高い失業率に異議を唱える若者らによるデモが、米国各都市にに広がっている。震源地は、金融機関が集中するニューヨークのウオール街。大量の逮捕者(10月1日約700人が逮捕)が出た後も賛同者は増える一方で、芸能界や経済界からも支持を表明する声があがっている。
 「ウオール街を占拠せよ」が活動の合い言葉だ。不当に富が集中しているとして、大手金融機関を攻撃相手の象徴に掲げる。「1%の金持ち、99%は貧乏」、「富裕層に課税を! 貧困層に食べ物を!」。太いペンで殴り書きしたプラカードには、若者たちの怒りの言葉が並ぶ。
 「どれだけ長い間、金持ちが貧困層から搾取してきたか。いまの社会はおかしい。気づいていない人たちの目を覚ましたい」
 メディアの注目が高まる中、リベラル派を自任する著名人が続々と現場に駆けつけたり、デモへの共感を表明したりしている。

 以上の「脱原発」運動も「ウオール街の占拠」運動も今日的な新しい平和運動である。つまり「平和=反戦」に限定する平和運動はもはや古いタイプの平和運動になった。もちろん反戦も地球上から戦争がなくならないかぎり、必要不可欠であるが、「平和=非暴力」という平和の再定義が求められる。いのち、日常の生活、基本的人権を守り、生かしていくには、反戦は重要であるが、それにとどまらない。戦争のほかに日常の殺人、自然環境汚染・破壊、交通事故死、原発、貧富の著しい格差 ― などの多様な暴力を追放しなければ、新しい平和観「平和=非暴力」は実現しない。その意味ではザップ将軍の「平和=反戦」を超えなければならないだろう。そのことを21世紀の新しい時代が求めている。これが100歳の長寿を楽しむ尊敬すべき将軍への私からの贈り物である。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年10月8日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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