「どうして福島原発事故とその処理に責任のある者たちが逮捕されないのか?刑務所に入らないのか?」これは小出裕章京大助教だけではなく、きっと世界中の大勢の人々が感じている疑問ではないでしょうか。もし誰かが少量の放射性物質を誤ってでもばら撒いたら厳しく処罰されるでしょう。原発以外のことでなら、もし可能性ある事故の想定をタブーにしデータを改ざんして対策を怠った果てに事故が現実のものになれば、また事故の影響が予測できたのにそれを隠して膨大な範囲に被害を広げたなら、さらに影響を軽く見積もった結果より大きな被害を招いたならば、当然のようにその担当者と責任ある地位の者に、刑事上・民事上の重大な責任が科せられることでしょう。なのにどうして核(原子力)については、関与した科学、行政、政治、経済、報道、司法などの分野にいるエリートたちが何の責任も問われずに野放し状態で生きていられるのか? それでよいのか? こんな疑問がゆっくりと、そして着実に日本の中に広がりつつあるのではないかと思います。
はっきり言いまして私はエリート主義者です。といって私がエリートなのではありません。私は、地位も無いし立場も無い、カネも無ければ死にたくもない、しみったれた「文句言い」の一人に過ぎません。私は、この人間社会を成り立たせ我々が生きていくためには各分野のエリートが絶対に必要だと考えている、そういう意味の「エリート主義」です。
人間は決して平等ではありません。もちろんいかなるエリートでも限界を持つ人間ですから、一神教の絶対神の前に出ればたしかに「万人は平等」でしょう。分数は分子がどれほどに大きな数であっても分母を無限に大きくしていけばゼロに近づきます。そのような意味でなら確かに「万人は平等」、平等にゼロです。ところが近代社会は、万人を等しくゼロにする無限大の絶対神を取り払ったうえで、抽象的な空間に「万人は平等である」という空虚なおまじないを描いてみせました。しかし現実には権力を振るうエリートが人間社会から消えたことはありません。国民の多くが「自由で平等な国だ」と思っていた日本が、どれほど悲惨なエリート支配の国だったのか、彼らからどれほど思想統制を受けていた国だったのか、フクシマを通して明らかになりつつあるのではないでしょうか。欧州やアメリカは最初から日本よりもひどいエリート支配の国々です。
しかしながら、人間の社会にとってエリートは必要なのです。政治の分野でも、行政の分野でも、司法・保安の分野でも、経済・金融の分野でも、学問・科学技術の分野でも、報道・メディアの分野でも、芸術・スポーツなどの分野でも、少数の本当に実力を持つ人間の存在がどうしても必要です。そしてその実力を身につけるための個々人の競争が我々の社会にとって必要不可欠なものだと、私は思っています。(やっと廃止されましたが、紛れもないエリートの発案による「競争はいけません」を基本にした「ゆとり教育」など、亡国的の一言でしょう。)
しかしエリートは、自分の足の下にいる膨大な数の非エリートに対して絶対的な責任を負うべきです。なぜなら、エリートたちの生活や活動の場を支えているのがその非エリートたちだからです。エリートたちが受け取るお金は、国民の大部分である非エリートが払う税金、あるいは非エリートたちが消費者として支払う料金なのです。本当のことを言えば、エリートたちは「上から」ではなく「下から」お金をもらっている、つまり非エリートに養われているのです。
かつて日本に「お客様は神様です」という言葉がありました。この言葉が本当に生きていたならきっと資本主義はまだ健全だったと思います。しかし現実には、たとえば東京電力の重役たちにとってきっと「お客様はカモ様」なのでしょう。もしこのようにエリートが自分を養っている非エリートを侮蔑し、その生活と人間としての尊厳を傷つけるなら、彼らは厳しく処罰されるべきです。極端かもしれませんが、非エリートが犯せば懲役1年の刑になる犯罪をもしエリートが行ったなら、懲役10年かそれ以上の刑に処せられてしかるべきでしょう。もしエリートが非エリートに対して嘘をつき騙して非エリートに被害を与えるなら、それは極刑に値する重大犯罪とされるべきです。それほどにエリートの社会に対する責任は重いのです。
と、まあ、こんなことを言うと、たちまち多くの人から「ファシズム!」と猛反発が起こることは分かっています。科学技術の分野でも、自分の研究にいちいち責任を負わせられるなら自由な研究ができない、それは学問の自由に対する侵害だ、などという声が上がるかもしれません。そんなことを言う人には「お前みたいなヘタレが学者になるな!」と言いたいわけですが、そんな社会的責任を自覚して背負って立つ人のみが、エリートとして社会のそれぞれの分野を率い、地域、国家、国際社会を形作るべきだ…。その代わり非エリートたちは、そのようなエリートたちの良い生活と良い活動の場を保証する…。私が考える「エリート主義」とはそのようなものです。
もちろんそのためには、非エリートたちがもうちょっとだけ賢くならなければいけませんし、エリートたちの言動と業績をチェックして養うに値しないエリートをクビにしあるいは処罰を与えるための適切なシステムが必要です。何よりも社会正義に関する新しいモラルが作られなければなりません。そしてそのシステムの中で社会正義を実現させるためには、メディアの機能と責任が最も重大であり、それは特に厳しいチェックを受けるべきです。もしメディアがその機能を果たさないなら、その機関は廃業させられ責任者はエリートの資格を剥奪されるべきでしょう。たとえばもし為政者の嘘をノーチェックに垂れ流し戦争を煽るようなメディアがあれば、彼らに「表現の自由」などを主張する権利はありません。即刻、営業不能にして潰すべきです。
また非エリートたち、つまり一般の大衆には、エリートの所業とともにこういった社会システムの機能をチェックする責任があります。それは今の自分たち自身の生活と同時に、先祖や子孫に対する責任です。その意味で言うなら非エリートの責任は最も重いのかもしれません。要するに、全ての人に責任があるんです。
しかし現今の「民主主義」のシステムでは、非エリートが(もしそれだけの知恵とやる気があったとしても)チェックできるのは、せいぜい政治家だけですね。これで「民が主体」などというのなら、そりゃ詐欺ですよ。まことに心細い限りですが、しかし、311フクシマをきっかけにして、少しずつですがより多くの人々が、いままで当然のこととして何とも思わなかった日本という国のあり方に対して、重大な疑問を持ち始めたのではないかと思います。この国が紛れもない無責任エリート支配の国だという事実が、フクシマを通してあからさまに現れてきたからです。
ここでちょっと、フクシマ原発事故に関連して、2011年の暮の、京都大学原子炉実験所の助教、小出裕章先生の言葉をいくつか振り返ってみたいと思います。
まず、同年12月26日に発表された日本国政府の事故調査委員会の中間報告に関してのものです。これは毎日放送ラジオ「たね撒きジャーナル」での発言であり、そのビデオ(音声)や、この話題についての詳しい内容や関連情報は、次の「ざまあみやがれい」様のサイトをご参照ください。
小出裕章が語る、政府事故調査委員会中間報告
「個人の責任を問わないで済むなんてことが私にとっては想像もできない」
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65782475.html
小出:要するに、一番大切なことは事故の原因をきちっと明らかにするということだと私は思ってきましたし、これまで日本の政府あるいは電力会社は、事故はひたすら津波のせいで起きた、地震はもう何の関係もないということで、宣伝をしてきたわけです。で、本当にそうかどうかということを検証して、この地震国という日本でこれでいいのどうかということを考えなければいけなかったはずだと思うのですが。・・・残念ながらそれに関しては何も触れないまま、ということになっているようにみえます。
水野:地震での大掛かりな破断などは現時点では確認できていないと…。
小出:はい、それを確認するのが仕事だったと私は思うのですが…。
・・・
小出:ただ、この委員会は、畑村さんをヘッドにする委員会、いわゆるテクニカルな専門家は誰もいないという、・・・もともと、原発のテクニカルのことをきちっと分かる人がいないわけですから、まあ、始めからこういう結論になるんだろうなと、私は思っていました。
水野:地震でどの程度の破損があったのかということを、きっちり確かめないことには原因が確定できないわけで。・・・じゃあそれで、いろんなこと論じても意味ないですね。
小出:まあそうですけど、委員の方々がですね、テクニカルなことに関しては、いま聴いていただいたように専門的知識をお持ちでないわけだし。結局ですから制度的にどうであって、連絡体制がどうであった、ま、そういうところしか……興味がなかったというか明らかにする力がなかったということだと思います。
・・・
小出:政府は、私は今回の事故の最大の犯罪者だと言ってるわけで、その犯罪者が自分の罪を積極的に暴こうと、もちろんしないだろうと思いますし。畑村さんはもともと、個人の責任は問わないということで、初めから始めてるんですね。・・・私は、これほど悲惨なことが起きて、いま現在、子どもを含めて被曝をしているという状況の中で、個人の責任を問わないで済むなんてことが私にとっては想像もできないことであって。きちっと一人ひとりの責任ですね。学者も、政治家も、東京電力の会長、社長も含めてですね、個人の責任をきっちりと明らかにすることをしなければ、いけないんだろうと私はおもいます。
【後略】
この調査委員会は最初から原発事故について誰も責任を取らないままで済ませる目的で組まれた委員会です。「制度的」または「連絡体制」などに《不備があった》という話でお茶を濁し、すべてを「合法性」の枠内に収めて「一件落着」にして「丸く収める」意図は見え見えです。日本が「法治国家だ」と言うのなら、こんな調査委員会自体が非合法でしょう。大勢の人々と社会がすでに傷つき、混乱し、将来に計り知れない損害と苦悩をもたらしたことが明らかなのに、「(エリートたちの)誰の責任も問わず(エリートたちの)誰も傷つけずに丸く収める」…、これが日本のエリートのやり口なのです。無法の極みだと思います。そして残念な事にそれにいとも簡単に丸め込まれてしまうのが我が日本国の非エリートたちの特徴です。(本当は「特徴でした」と過去形にしたいところですが、どうでしょうか。) 続いて、2011年12月29日のテレビ朝日の番組「そもそも総研」での発言です。これについては、次の「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」様のページをご参照ください。ビデオと文字起こしが載せられてあります。
「反原発訴え続け40年”学者としての責任”」
http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/12/31/tvasahi-dec29/#more-2759
玉川:今回ほどいわゆるその学者の責任が問われたことはないんじゃないかと思うんですが、いわゆる御用学者というような人たちの存在がずいぶんクローズアップされたと思うんですけれども、そういう人たちの存在を、対極にいらっしゃった立場としてはどういうふうに見ますか?
小出:自分が何か間違いをすれば自分で責任を取るしかないと思いますし、原子力を推進してきた人たちだって、自分がこれまでやってきたことの意味というのをちゃんと自分で考えてそれなりの責任を明確にする、そして責任を取るということをやるべきだと私は思っているのですが、残念ながら誰一人としてやらない。チャップリンが(殺人狂時代という)映画を作った。その中で「一人殺せば殺人者だけれども、100万殺せば英雄だ」という言葉を言わせているんですね。もし私が誰かに被ばくをさせる、法律を超えて被ばくをさせるようなことをすれば、私は犯罪者として国から処罰をされたはずだと思いますけれども、その国、あるいは巨大産業である東京電力は、何百万人の人にいま被ばくをさせているわけですね。それでも誰も責任を取らない。ぬけぬけとこのまま逃げおおせるというようなことは、私は許したくないと思います。
もちろんですが、その「原子力を推進してきた人たち」の中に入るのは、(中央と地方の)政治家と(電力とその関連の)巨大産業だけではないですね。大勢の学者と研究者たち、中央と地方の官僚たち、検察や裁判所の者たち、そして報道・メディアの関係者たち、・・・、そして何も知ろうとせずにそれを黙って受け入れてきた一般の日本国民も、すべて含まれますね。個々人の責任を問題にしない東京大学の「失敗学の大御所」の作業は、新たな失敗と更なる無責任の連鎖を準備するだけに終わるでしょう。学者同士の互助会、原子力に関連した各分野の単なるもたれあい、「角を立てない」「丸く収める」のが大好きな日本社会の大失敗の見本…、といったところです。
核(原子力)について言ってみれば、日本という国は延々と「一億総無責任体制」をとり続けてきたわけで、これで「法治国家」などと言われても、ばかばかしくて付き合ってられないわけです。小出先生のおっしゃるとおり、今まで原子力を推し進めてきた中央と地方の官僚や政治家、産業と金融の財界人、学者や研究者、マスコミ関係者、司法関係者などの個々人が、誰一人、刑事的な責任を問われずに逃げおおせるなど、とうてい許すべきではありませんし、またそれを黙って見過ごすのなら、それは同時に、個々の一般国民の責任でもあるでしょう。 ここでちょっと核(原子力)の問題から離れますが、歴史を振り返ってみたいと思います。第2次大戦後において、この「一億総無責任体制」に最も責任のあるのが昭和天皇ではないだろうかと私は感じます。こんな考えはたぶん私だけのものではないでしょう。あの敗戦の際にその責任を取って裕仁天皇が、切腹とまでは言わないにしても少なくとも退位して…どこかの神社の神官にでもなっておれば…、そうしてエリートとしての最低限の責任の取り方を示しておれば、戦後の日本社会は全く違ったものになっていたのではないか…。しかし実際には裕仁は天皇位に留まり続けました。これですべてが「丸く収まった」わけですね。戦後の「一億総無責任国家」日本の出発点です。
ところで、アメリカには日本の官僚機構を解体する意思が無かったようですが、日本の天皇制官僚たちはひょっとすると、マッカーサーに頭を下げる天皇を見た瞬間に「ご神体」がアメリカに移ったとでも感じたのでしょうか? そこまでは分かりませんが、私が「ZEROへの熱い思い」で書いたような状況になったと思います。
すでにインターネット上で次々と明らかにされてきていることだが、日本の官界・政界・財界・マスコミの支配層は、米国の戦略の中で米国の軍と諜報機関を抱き込んで堅固な利権構造を維持し続けているのである。学者・専門家や知識人・言論人の集団も、その構造に組み込まれ、その範囲内で生存を許されている。日本の支配層はかつて、天皇神話を奉じて利権確保の仕組みを作り上げそれを「国体」と称した。ところがその日本は、天皇がマッカーサーに頭を下げるや否や、即座に米国神話を奉じる「神国日本」となった。官界・政界・財界・マスコミによるこの国の支配構造は、100年前からほとんど変わっていない。単に「天皇」が「米国」に置き換わっただけだ。しかしそれは自らの軍と諜報機関を持てない。必然的に米国の国家戦略の内部で彼らの「国体」を維持してきたわけである。
いや、それでもまあ、頼りにして寄りすがった「大樹」のアメリカが、正直できちんと物事の責任を取ることのできる国だったのなら、それはそれでよかったのかもしれません。ところが悪いことにそのアメリカが、日本に倍するとんでもない大嘘つきの無責任国家だったのですね。
核(原子力)開発についてのアメリカの大嘘と無責任はいまさら私が申し上げるまでも無いでしょう。こちらやこちら、こちらなどのいくつかの資料で十分だと思います。その他に、大嘘つきのエリートが大量殺人と大量破壊を行って何の責任も取らない例はこの国の歴史を見渡せばいくらでもころがっています。
たとえば1960年代半ばから70年代前半まで続いたアメリカによるベトナム戦争本格介入のきっかけになったのが1964年のトンキン湾事件ですが、これがでっち上げの大嘘だったことが後(1971年)になって公式な形で明らかにされました。この戦争でアメリカは、数十万人のベトナム人を殺害したことはもとより、自国民兵士を(公式の数字で)4万6千人以上も殺し、自国にその数倍もの負傷者と多数の精神障害者を残したわけですが、トンキン湾事件でっち上げの責任は誰一人とっていません。近ごろではイラク戦争がそうですね。2011年になってやっと戦闘部隊だけはイラクから立ち去りましたが、8年間の破壊と殺人の開戦理由がことごとく大嘘だったことはよく知られています。しかしその大量破壊と大量殺人を導いた大嘘の責任もまた何一つ叫ばれたことがありません。アメリカこそ大嘘を付いて100万人を殺しても涼しい顔でエリートのままでいてられる国なのですね。
21世紀のイラク戦争はジョージ・W.ブッシュ大統領が決定したのですが、その父親であるジョージ・W.H.ブッシュがやらかしたのが(第1次)湾岸戦争です。そのときもまた、「イラク兵によるクウェートでの残虐行為証言」だの「サダム・フセインの石油流出作戦」だの「油まみれの水鳥の写真」だの、大嘘でっち上げの連続でした。
でもこんな程度で驚いてちゃいけない。もっともっと凄いのがジョージ・W.ブッシュの父方の祖父プレスコット・ブッシュと、母方の祖父ジョージ・ハーバート・ウォーカーに関する事実でしょう。
2003年になって機密を解かれた米国公式文書によりますと、彼らは、第2次大戦前の1926~42年に、ナチスによるドイツの軍拡・戦争体制の財政基盤を支えたビジネスパートナーとして、そしてそれに莫大な財政支援を行った米国の銀行経営者として華々しい活躍をしていました。次をご覧ください。
http://www.asyura2.com/0311/war41/msg/400.html
実際に、第2次大戦が開始されるまで、ナチスのドイツと最も親しく付き合っていたのがアメリカだったのです。このナチスへの投資ではブッシュ家とウォーカー家が最も目立つのですが、それだけではなく、ロックフェラー家、フォード家、ワーバーグ兄弟など財界主要メンバー、ATTやユナイテッド・スティールなどの主要産業界、大戦後に米国政府要人となるアレンとジョン・フォスターのダレス兄弟、エイヴレル・ハリマンとその親族、等々といった米国内エリート集団が大規模に携わっています。そしてそこにシュレーダーやブラウン・ブラザーズなどのロンドン・シティーの主要メンバーまで加わります。次の年表は英語ですが、そのへんの経過を非常によくまとめています。
http://www.spiritone.com/~gdy52150/timeline.html
パールハーバーをきっかけに日米戦争が始まり、欧州での戦いにアメリカが参加して後の1942年になって、ようやくプレスコットやジョージ・ハーバートらのドイツ関連の資産がアメリカ当局によって指し押さえられました。しかしそれも単に見かけ上であり、彼らは実質的に言えば何一つその責任を問われなかったのです。
戦後の1952年になってプレスコット・ブッシュは上院議員となり、53年にはジョン・フォスター・ダレスが国務長官、アレン・ダレス(シュレーダー銀行の終身重役)はCIA長官になりました。(副大統領になったのがダレスの秘密握りつぶしに協力したリチャード・ニクソンだという話までありますが。)またプレスコットの息子ジョージ・W.H.つまり大嘘でイラク戦争を始めたジョージ・W.ブッシュの父親(後のCIA長官)が、早速CIA関連の企業を立ち上げています。
その他にも、優秀なナチスが米国に渡って戦後の米国の科学技術力や諜報能力を高めたこととか(優秀だったかどうか知りませんが前カリフォルニア州知事のシュワルツネッガー氏の父親もナチだったようで…)、ナチスが製造したモルヒネの密売を元にCIAが中南米での麻薬利権構造を作ったとか、もっともっといろんな話があるのですが、言い出せばきりが無いですからここらでやめておきましょう。 さてさて、こうしてみますと、学校の歴史教科書がいかに頼りにならないものか、よく分かりますね。それにしてもいまだに世界中で諸悪の根源のように言われているナチスを、学校教科書的には「民主主義と自由の祖国」アメリカの、それも主要なエリートたちが熱心に支援して強大な力に仕立て上げたわけです。それがアメリカ自身の公式文書から分かることなのですが、彼らがその責任を取るどころか、その後さらに大きな嘘と無責任の元凶になっていくわけです。その結果が、日本と中国のカネでやっとのことで生き延びる情け無い経済を、何度も世界を破壊できる暴力装置で維持し、ますます激しくなる貧富の差と困窮者の増加を、ナチス顔負けの警察国家化で乗り切ろうとする有様です。
『事実は小説より奇なり』とはよくいったもので、まあこんな連中の手にかかっては、核(原子力)開発に関する大嘘と隠ぺい工作などお茶の子さいさいでしょう。日本はそんな化け物みたいな国に「寄らば大樹」とすがって「一億総無責任国家」になってしまったのです。ろくでもない結果に終わるのは火を見るよりも明らかですね。
当然ですが、私は別にアメリカだけが悪いとは言いません。今まで世界中のどの国々でもエリートの立場にある者たちが似たり寄ったりの大嘘と無責任の悪事を働いてきたうえに、その国の国民がその悪事に無知なままで、あるいはうすうす知っていても知らん顔をしてきたわけです。こんな徹底して汚い世の中のあり方と根本的に向き合ってそれを告発していかない限り、平和も反戦も反原発も、しょせんは掛け声だけ、絵に描いた餅でしかないでしょう。
あるいはひょっとすると、原発だけなら(その後の廃棄物や使用済み核燃料などの処理はともかく)他の発電手段に置き換えることが可能かもしれません。しかしそれが実現できるときまでに散々に放射能がばら撒かれ、そのうえで、別の手段を使って今まで以上の大嘘と無責任による破壊と殺人が繰り返されるのみでしょう。そんな社会の解体と再編そのものを目指さない限り、「反原発運動」は無意味なばかりか無責任エリートどもの悪事に手を貸すはめに陥るだけだと思います。
もうひとつだけ、小出先生の発言を聞いてみましょう。2011年12月30日の毎日放送ラジオ「たね撒きジャーナル」からです。そのビデオ(音声)や、この話題についての詳しい内容や関連情報は、次の「ざまあみやがれい」様のサイトをご参照ください。
小出裕章が語る本音「放射能の問題でもなければ原子力の問題でもない」
「弱者が虐げられているという、そのことだけですよ」
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65783081.html
最初の方でも申しましたように、責任は全ての人にあります。騙されてひどい目にあう人は大概が立場の弱い非エリートたちでしょう。そんな人に「責任」などと言うと、それだけで反発が起こるのは当然です。しかし、もし一人の人が同じ手口で何度も騙され同じ詐欺に何度も遭うような場合はどうでしょうか。それでひどい目にあるのはその人だけではないのです。その人の近親者、周囲の人々、そして何よりも子供や孫にその影響を広げ残していくことでしょう。そうなるとその人は、自分自身に対して以上に、近親者や子や孫に対して、やはり重大な責任を負うことになるでしょう。
しかしいずれにせよ、エリートたちの無責任のツケは、結局は立場の弱い非エリートに回されることになるでしょう。ここで、おしどりまこさん・けんさんとの会話の中にある小出先生の言葉の一部だけを取り上げます。
小出先生の心の最も深いところにある言葉だと思います。おっしゃるとおりです。敬服します。
私はいま、「大不況」と呼ばれる集団強盗のさ中であらゆる苦痛と不利益がより立場の弱い者たちに次々と覆いかぶさっていく、まさにその現場にいます。こちらをご参照ください。(このシリーズの第1話から第7話までと付属資料は、次のページの最後にまとめてリンクを貼っていますので、ぜひご覧ください。)
シリーズ:515スペイン大衆反乱
15-M(キンセ・デ・エメ)
『第8話(最終回):旅人に道はない。歩いて道が作られる。』
http://doujibar.ganriki.net/webspain/Spanish_5-15_movements-08.html
この国のエリートたちは昔から、自国の産業を育て生産力を高めて最低限の国民生活を確保するという地道で苦しい作業などまるでやる気がなく、他のより工業の進んだ国から企業を誘致し国際的な金融機関から借金して、そこからあがる「甘い汁」に好き放題にたかる利権構造を作ってきました。昔からの貴族と王族、地主と教会、新興ブルジョアと銀行家、そしてその周辺で「たかり」に参加する政治家や学者や文化人の集団、それらと利害を一致させるマスコミ経営者と司法関係者、等々。
その社会構造は、フランコ独裁時代でも社会労働党政権時代でも国民党政権時代でも、何の変化も受けませんでした。「独裁」だろうが「民主」だろうが、「右翼」だろうが「左翼」だろうが、その基本的な構造は全く同じなのです。その点はイタリアもフランスも英国も似たり寄ったりです。
その間に国営・公営事業は次々と私営企業に売り払われ、日本人の愚かさから何一つ学ぶことなく住宅・不動産バブルが作られ、GDPの成長は利権たかり構造の中で誰かの懐を通して大銀行の金庫に消え、さらに膨らむ借金の利子の支払いに消えてもっと赤字を増やし、国際的な大金融機関への借用書だけが山のように積もっています。そしてそれを支払わされるのは、カネがカネを産む幻覚の中で甘い汁を吸いまくったエリートたちではなく、若年層の半分以上が職を見つけることのできない非エリートの貧乏人たちです。結局そうなるんです。
EUやユーロの「実験」は結局失敗に終わるかもしれませんが、その際の混乱と困窮は全て下層の者たちに回されるでしょう。強制的な生活資金の剥ぎ取りです。「経済学」の幻術的な言い回しはもはや効力を失うでしょうね。要は、誰に目にも明らかな大規模集団強盗に他なりません。社会エリートたちが、自分たちの足の下にいる非エリートたちに対する責任を果たすかわりに、その強盗としての真顔をむき出しにしているわけです。
「小盗は拘(とら)われ大盗は諸侯となる」とは荘子の言葉ですが、この2千年以上、人類の歴史は根本のところで進歩も発展もしていません。現代の世界では、大盗人(おおぬすっと)どもによる最も能率の良い詐欺・破壊・略奪のシステムが最大限に稼動しているに過ぎないのです。歴史は進歩する、人類は発展するなどと大嘘をつく奴は誰だ?! 今年の欧州は、昨年の比ではなく荒れ狂うと思います。日本も他人事ではないですよ。
その中で新たな戦争の声を聞くことになるかもしれません。それも、核施設を核兵器で攻撃するというとんでもないものになる可能性があります。イラクやアフガニスタンと同様に、戦争の破壊と殺人を、ひょっとするとそのうえに放射能の被害まで、最も弱い立場の者たちが被ることになるでしょう。
小出先生がおっしゃっている通り、そして私が先ほどの「シリーズ:515スペイン大衆反乱」で申し上げた通り、このことは実に単純なのです。要は、カネを握り暴力をふるい大嘘をつくエリートたちが、より弱い立場の者たちをだまし搾り取り傷つけて殺す…、ただそれだけなのです。日本でたまたまその道具が「原子力」であり放射能だったわけで、本質は実に単純なのです。非エリートの弱者が挙げる声は、もう騙されるのはいやだ、搾り取られるのはごめんだ、傷つけられ殺されるのはまっぴらだ…! ただそれだけです。単純な話です。
こんな無責任エリート支配の社会を、いつ終わらせることができるのか、私には分かりません。しかし、弱い立場の者たちが声を挙げない限り、このような社会は、我々弱者の全てを奴隷にするか殺すか障害者にするところまで進むことでしょう。私に言わせれば、人間社会を構成する人々が無責任なままエリートだけが非エリートを虐げて好き放題に支配する社会、弱い者だけが一方的に被害と処罰を受ける社会こそがファシズム社会です。
この考察は、テーマを少し変えて「小出裕章2011年暮の言葉に思う (2)政治に支配される科学」に続きます。
http://doujibar.ganriki.net/fukushima/responsibility_of_individuals.html より転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1773:120107〕